随想:音楽、ピアノ、ショパンについて
1990年代後半の話である。東京都練馬区江古田に棲んでいた。武蔵野音大から徒歩一分くらいのアパートで、そこから別の大学に通っていた。毎日、音大の前を通っていた。当時、ギリシャ哲学と古典ギリシャ語を学んでいた。だが音楽の事を意識する事は多かった。
江古田には、緩やかな坂道が流れていて、ドイツ風の商店街があった。夕方になると、よく声楽の女性教師が、ドイツ語で歌を歌いながら、駅に向かって歩いていた。
住宅街からは、いつもショパンのÉtude op.10 nº12『La révolutionnaire』(革命)が流れていた。音大生たちだ。無論、その殆どが女子大生だ。
近くには、女子寮があって、よく下着ドロが出た。厳重なセキュリティが敷かれていたにも関わらず、よく盗まれていた。その度に、環七沿いの江古田専売所に警察が入った。別に誰も捕まっていない。だが毎回、警察は専売所に来ていた。男たちはいつも疑われていた。
人はイメージでものを見ている。その昔、ドイツの哲学者カントは、物自体は見えないと、『純粋理性批判』で言っていたが、果たして本当にそうだろうか?
人はどうしても、物自体を見たがる癖がある。本能と言ってもいい。本質を追及するのが、哲学の筈だったのに、カントのせいで台無しになった。でもイメージはOKで、人はそれを見続ける。幻想かもしれないが、感覚から入手した情報を基に、イメージを構築する。
昔、カントの『純粋理性批判』高峯一愚訳1989/11/1を読んでいた時、隣に住む音大生が、壁が薄いにも関わらず、男を連れ込んで、大変な事をしでかした。これだから、人類が繁栄して仕方ない。カントの『純粋理性批判』と壁の薄い音大生だ。テーマは防音である。
いきなり、話が逸れた。話を戻そう。
当時音大には、秋の音楽祭があって、ピアノの発表会もあった。外部の一般人も招かれる。期間中は誰でもキャンパスに入っていい。自由に音楽祭を楽しめる。今でも同じ事をやっているのかも知れないが、近年校舎も新しく立て直したので、もう昔の話かもしれない。
なので、90年代後半の話だとさせてもらうが、当時は、近所のお爺さん、お婆さん、音楽関係者などが、音楽祭の観客として来て、コンサートの席を埋めていた。吹奏楽などもあったが、やはり華は、ピアノ音楽で、中でも、ショパンの比率が高く、圧倒的な人気だった。
音大生、女子、ショパンという組み合わせは、時にはカントの『純粋理性批判』の読解を妨げたりする事もあるが、基本的に王道ルートで、もう『革命』しか思い浮かばない。
流石に、音楽祭のコンサートで、練習曲の『革命』は、短すぎて、やらないが、ショパンの別の長めの曲が演奏される。普段、彼女たちは住宅街の到る処で、ショパンの『革命』ばかり演奏しているのに、本番では別の曲を弾くのだ。ミーハーか?
音大生、女子、ショパン、革命は、かなり劇的で、絵にもなるし、イメージ通りだ。ドラマのヒロインみたいだ。彼女たちの心は、1848年のパリにでも、飛んでいるのかも知れない。あるいは自分たちのモチベーションを上げるため、革命を弾きまくっているのか。
ピアノの練習は、とても長い時間を要する。一日どれくらい掛けるべきなのか分からない。数時間では終わらないようだ。昔、少しだけ、やった事があるが、子供の手習いに過ぎないので、比較にならない。それでも、バッハの『平均律クラヴィーア』1番を弾いた覚えがある。
楽譜は読めないし、音楽理論は分からない。感覚も忘れた。指も動かない。でもボカロで、ベートーヴェンの『エリーゼのために』に、無理やり歌詞を付けた事がある。動画は16,000再生、高評価59だ。かなり衝撃的だったらしい。今の小説より評価が高いのはなぜか?
音楽に関しては、分かる事もあるので、ずっと聞き続けていた。そしてこの音楽祭では、数多くの女子大生が、ショパンの曲を演奏する。まだプロではないので、時々音を外す。指が余計な処にぶつかって、異音が混じってしまう事がある。ドンマイだ。誰も気にしない。
観客席のお爺さん、お婆さんも、演奏が終わると、学生さんのショパンに暖かい拍手を送る。別にショパンコンクールを目指している訳ではない。中には目指している人もいるのかも知れないが、全員ではないだろう。彼女たちの大半は、将来、町か学校の音楽の先生か。
それでも、今この時は、ショパンを演奏している。学生だからだ。将来はまだ分からない。各自が目指す目標は異なるかも知れないが、音楽、ピアノ、ショパンまでは一緒だ。
時に、涙を流しながら、ショパンを演奏する女子大生がいる。決して少なくない。大学の音楽祭で一般公開されている演奏で、必ずしも上手という訳ではないが、見ている者に不思議な感興を呼び起こす。一回二回ではない。毎回起こる。一体何が起きているのか?
長いピアノの練習、訓練、苦行とも言える修練の果てに、辿り着いた本人にしか分からない境地なのだろう。明らかに何かに感動している。女子大生たちは自分自身が高まって、心が何かに触れて、感動している。そうでないと、あの涙は説明がつかない。
プラトン流に言うならば、音楽のイデアでも触れているのだろう。叡智界は存在する。あの女子大生たちは、ショパンのピアノで、音楽そのものと触れ合い、音楽の炎を灯して帰ってくる。一度点火されたら、決して消えない神の火だ。一生音楽から離れられない。
そういう意味では、ショパンは偉大だ。膨大な作品群を残し、ピアノ音楽を学ぶ者たちの数多くを、叡智界にまで連れて行っている。そういう修行方法、そういう悟りの道を、音楽の一角で、築き上げている。人類の教師、まさに英霊と言ってもいいだろう。
ショパンの精神は、地上に残され、今も武蔵野音大の女子大生たちの心を、遥か高く叡智界にまで飛ばしている。こんな凄い事が近くで起きていたとは、最初全然分からなかった。今も江古田の住宅街で「革命」が演奏されている限り、この奇跡は続いていくのだろう。
音楽の天才がいて、自分が音楽で叡智界にまで飛ぶ事はできるだろう。だが人類の教師であれば、他の人まで、叡智界にまで導いてしまう。これが天才より一段上の境地だろう。こういう世界はある。音楽も、哲学も、限られた世界ではあるが、間違いなくそういう人たちはいる。
文化・運動の源となるような人たちだ。またさらに、これより一段上の境地として、大陸の文明を興すような神人もいる。例えば、中国の孔子とか、そういう類の人だろう。これはもう分からないレベルだ。神の計画とか、そういうレベルの人だ。ただこう眺めてみると、果てしない時の流れがあって、その中で、人類はずっと文化・文明活動を続けている。
何のために?と言われれば、自分の魂を高めるためとしか言いようがない。人はどうしても神に近づきたくなる。真理と言ってもいい。手段は問わないが、それなりのものでないとダメだ。ショパンのピアノ音楽もその一つだろう。だから昔の人は言った。
Ὁ βίος βραχύς, ἡ δε τέχνη μακρά. Ιπποκράτης
ホ ビオス ブラキュス ヘー デ テクネー マクラー ヒッポクラテース
人生は短く、芸術は長い。ヒポクラテス(古代ギリシャの医者)
Ars longa, vita brevis. Hippocrates
アルス ロンガ ウィタ ブレウィス ヒポクラテス
芸術は長く、人生は短い。(ラテン語だとなぜか逆)
Art is long, life is short. Hippocrates
芸術は長く、人生は短い。(英語だとちょっと間抜け?)
La vie est courte, mais l'art est long. Hippocrate
ラ ヴィ エ クールト メ ラール エ ロン イポクラット
人生は短いが、芸術は長い。(ギリシャ語からのフランス語訳)
有名な言葉だ。今やビオスは、バイオスとなって、PCに内蔵され、テクネーはITになって、人々の役に立っているのかも知れないが、形を変えて、この真理は今も続いている。
ハムラビ法典もよく見ると、If~Then~Elseの構文でできているので、ITのプログラミングと変わらない。人がルールを作ると、時代に関係なく、同じ形が現われて来る。真理だ。
基本、変わらないという事だろう。だから真理に辿り着くために、長い道のりがある。修行だ。我々は形が変わった事に、気が付いていないだけで、日々、長い道のりを歩いている。
最近、とあるAV女優が引退して、ピアノを演奏していると聞いて、動画を見た。
最初のタッチからして、音が違ったので、昔、かなり本気で取り組んでいた事が伺えた。
演奏する前、一瞬だったが、長い髪を前に垂らす前傾姿勢を取り、(何だか貞子みたいだったが)明らかに何かを自分に入れて、演奏していた。ちょっと驚いた。
この元AV女優は、今の若い人は知らないかもしれないが、出演数、売上、活動期間の長さから、一定以上の年齢の男性なら、聞いた事がある有名人だ。意外な側面を知った。
経歴を見た感じ、19歳でピアノを辞めたと推定される。一体何があって、AV女優になったのか知らないが、それ以前は、かなり本気でピアノに取り組んでいた事は分かった。
本人は、久しぶりに、ピアノに触れた。グランド・ピアノは久しぶりと笑顔で言っていたが、少なくても、音楽には触れ続けていたのだろう。ブランクがあるとは言え、下手ではない。
演奏している時の彼女の姿は、AV女優の彼女とは全く異なっていた。夜の女が昼の女になった。もう邪な視線で、彼女を見る事はできない。だが神性というよりは、魔性が少しあって、ちょっと鬼気迫る感じもあり、シャーマニックな演奏で、巫女的だった。
辞めたとは言え、10年以上AV女優を続けていれば、相当人格も変わってしまうだろうが、もし再び、ピアノに触れて、神の火が燃え上がるなら、少しは救いもあるかも知れない。大きなお世話かもしれないが、彼女のピアノは、明らかに彼女の心を浄化している。
こんな処にも、音楽の力を感じた。弾いていた曲は、やっぱりショパンだった。
音楽は人を浄化し、高める力があると思う。あと言葉と関係がない。関係もあるが、言語に左右されないという特徴がある。人間の感情を表現しているからだ。感情は空間的なもので、霊性と関係がある。なお理性は時間的なもので、悟り(悟性)と関係がある。
この霊性というのは、場を浄化する力とも関係があり、人が持つ雰囲気だったりする。だから本物の音楽は、退魔の力も持つ。エクソシズムだ。コロナさえ乗り越える。なお孔子は、音楽を好んだと聞くが、仏陀やイエスでは聞かない話である。孔子は霊性が高いという事か。
最後に、最近のお気に入りのピアノ動画を紹介して終わりたい。
東南アジア、タイの小さな女の子が、英語で歌を歌いながらピアノを弾いている。
https://www.youtube.com/watch?v=9nez_Yw0UrY
Emilie Plays Piano for Sharky the Dog and Satang the Cat
02:44 1,033,216 回視聴 2023/01/25
子供の手習いにしては、上手なのは、親がプロの音楽家だからだ。
親も沼地の近くにグランド・ピアノを置き、象に演奏を聞かせている。
アメリカ出身の芸術家一家のホームビデオだが、時々見ている。面白い。
中々、こんな環境に身を置く事はできないが、幸せな女の子だなと思う。
以上