閻魔大王の憂鬱
その地方公務員は、五里霧中に彷徨っていた。
足元を見る限り、ずっと砂利が広がっていた。どうやら河原のような場所なのだが、行けど彷徨えど、霧が酷くて、どこにも辿り着かなかった。数メートル先も見えない。
水が流れる音は、ずっとどこからか聞こえて来るのだが、肝心の川は見つからなかった。
喉が渇き、不快感が酷い。悪夢のような世界だった。なぜこのような場所を彷徨っている?
確か部屋で痛飲していた筈だった。気が付いたら、こんな場所にいた。意味が分からない。
「おい、そこの若いの。どうした?」
ふと後ろから声を掛けられて、地方公務員は跳び上がった。
「……ちょっとお爺さん、脅かさないでください」
だが助かった。さっきからずっと一人でいて、困っていたところだった。
「ここはどこですか?」
「……三途の川じゃろ。ほれ、渡し守もいる」
爺さんが指差すと、急に川が見えた。
「え?三途の川?」
小さな渡し場があり、老婆が立っていた。近くの小舟の上にも、小さな人影が見えた。
「ほれほれ、行くぞ。ついて来い」
爺さんが先に進むので、やむなく地方公務員もついて行った。別に川を渡りたい訳ではなかったのだが、なぜか渡し場の老婆から、三途の川を渡るための渡し賃を求められた。
「え?六文銭?お金が要るの?え?ドルや人民元はお断りだって?」
地方公務員は尻ポケットから、小さな財布を取り出した。
あ、しまった。さっきコンビニで酒を買った時、持ち合わせを切らしていた。
「婆さん悪い。クレジットカードとか使える?」
奪衣婆(だつえば)はアメ〇クスのカードを受け取ると、片目を瞑って、鑑定した。
「……このカードは使えんな。お前さんの信用はゼロじゃ」
その老婆は意地悪だった。なぜか金目なものに、異常なまでに目利きが効いた。
「え?そんな事はない筈だけど……」
先月もちゃんと支払いは済ませている。確認した。
「まぁ、婆さん、わしの顔を立てて、これで通してやってくれ。釣りは要らん」
爺さんは聖徳太子の一万円札を出した。旧札だ。初めて見た。
渡し場の婆さんは、少しだけ目を見開いてから、了解した。爺さんが小舟に乗るので、止む無く地方公務員も乗る事にした。意味が分からないが、今は流れに身を任せるしかない。
小舟が動き出したので、櫂を漕ぐ小柄な人物を見た。黒衣を纏い、フードで顔を隠している。
「……渡し守の顔は見ない方がいいぞ。下っ端の死神だからな」
爺さんがそう言うと、地方公務員は慌てて顔を逸らした。だが気になる。
「別に私の顔を見ても問題はない」
突如、フードを降ろすと、金髪碧眼の美少女が現れた。見目麗しい。
「……ふふ、実はドクロかもしれないよ」
よく見ると、鎌で漕いでいた。まるで深夜アニメみたいな展開だった。
それから少しすると対岸に着いた。爺さんが小舟を降りるので、止む無く地方公務員も続いた。近くに唐紅(からくれない)の大きな建物が見えた。あれは閻魔堂か。あそこに行くのか。
「さて、閻魔大王とご対面だ。行くぞ」
爺さんがそう言って、死神美少女に別れを告げると、地方公務員は怯えた。
「閻魔大王とか本当にいるのか?これは夢じゃないのか?」
「……何じゃ、気が付いていないのか。お前さんは死んでいるんじゃよ」
ほれと右手を掴まれると、地方公務員の右手を左胸に刺した。通り抜けた。在り得ない。
「何だこれは?どういう事だ?」
「だからお前さんは幽霊なんじゃよ。幽霊」
地方公務員はもう一回、右手を身体に通してみた。抵抗なく通り抜ける。
「……意味が分からない」
「まぁ、人生の意味が分からない者にはそうじゃろうな」
爺さんはさっさと歩いた。おいてきぼりは怖かったので、慌てて後に続いた。
そこはお役所でありながら、裁判所のような場所だった。そしてイメージ通りの閻魔大王が大きな椅子に座っていた。聖徳太子みたいに手に笏(しゃく)を持ち、朱色の冠を付けている。
右側に官吏たちが立ち、左側に鬼たちが立ち、こちらを威圧している。なぜか周囲の壁に、十七条の憲法が張り出されていた。意味がよく分からない。ここは飛鳥時代の日本か?
先に爺さんが、閻魔大王と話していた。夏の高校野球がどうとか、よく分からない話をしている。善行と悪行のバランスシートが、照魔の鏡に表示され、熱心に議論された。
ぽーんと爺さんの判定が出た。現世に一時帰還。しかる後、再び死ぬ事が決まった。
「じゃあな、若いの。頑張れよ」
爺さんは立ち去ってしまった。慌てて後を追おうとしたが、鬼に止められた。
「さて、今度はお前の番だ」
閻魔大王が、地方公務員の善悪のバランスシートを展開した。マイナスに振り切れていた。
「こちらがいつもの添付ファイルでございます」
官吏が、ドキュメントに添付されていたエクセルファイルを照魔の鏡に展開する。
地方公務員が、ネットでぶっこ抜いたポルノと深夜アニメのリストが、ずらりと並んだ。
関数が合計金額を表示している。生涯年収を軽く超えていた。地方公務員は青くなる。
「まぁ、これは後回しでよい」
閻魔大王は資料を一瞥すると、こちらを見る。
「一体これは何だ?何で俺のプライバシーが暴かれている?」
地方公務員は叫んだ。さっきから理解できない事のオンパレードだ。ストレスフルだ。
閻魔大王は、暫くの間、黙ってこちらを見ていた。そして近くの官吏を呼んだ。耳打ちしている。そしてその官吏はその場を離れて、どこかに行った。何だ?何をしている?
「今、お前さんの問題はこれじゃろう」
部屋の空中に映像が現れた。まるで動画のように再生される。照魔の鏡から投影されていた。
夜の高速道路が見えて来るた。車が沢山走っていた。海峡の大橋が見えて来るた。
「これは……」
地方公務員は息を呑んだ。あの時だ。追突事故だ。
動画が切り替わり、明らかに飲酒運転している地方公務員が映った。そしてうっかりアクセルを踏み抜き、前方のランドクルーザーに衝突した。そのまま後ろから押す形で、二台の車は大橋のガードレールに激突し、重量があるランドクルーザーが海峡に落ちた。
地方公務員は、汗を流していた。在り得ない量の汗が全身から流れる。
「……エンマさん、用って何?」
不意に二人の幼い姉妹がやって来た。誰だ?知らない。
「お前さんたちを海に落とした張本人だよ」
閻魔大王が地方公務員を見て言った。幼い姉妹が振り返る。
「……お兄さんが私たちを海に落としたの?」
その姉妹の眼差しは、海の底のように深くて、黒かった。
地方公務員は悲鳴を上げて、その場で腰を抜かした。
「どうして私たちを海に落としたの?」
「……そんなつもりはなかった。アクセルとブレーキを間違えただけだ」
あの事故で、被害者の家族で亡くなった者がいるとは聞いていた。だがこんな幼い姉妹とは聞いていなかったし、まさかこんなところで会うなんて思いもしなかった。
「でもお酒を呑んでいたよね」
姉妹は言った。そうだ。お酒を呑んでいた。呑まずにいられなかったからだ。
窓口で市民からのクソクレームを受けて、その対応で上から怒られた。理不尽があった。
ちょうど今、そのシーンが流れた。婆さんが吼えている。映画のワンシーンみたいだ。
「……これは私たちに関係ない」
姉妹はそう言っていた。確かにそうだ。姉妹が死ぬ理由にはならない。
「俺は馬鹿な事をやった……すまない」
当たり前の話だが、後悔していた。やり直しができるなら、やり直しをしたい。
「いいよ。許してあげる」
姉妹は言った。幼い笑顔が眩しい。どうして許す?
「実は私たちね、お父さんとお母さんのところに帰れるの」
姉妹はお互いを見て、笑顔で微笑んだ。
うん?この子たちは死んだ筈じゃなかったのか。帰れるのか?よく意味が分からない。
「……これに懲りたら、地上で裁きを受けて、心を入れ替えるんだな」
閻魔大王は言った。これにて閉廷と官吏が宣言する。机の上にドサドサと書類の山が築かれ、閻魔大王が溜息を吐いている。閻魔大王の憂鬱だ。幼い姉妹が机の周りを走っている。
「何だ?早く行け。もう用はない。忙しい。天帝に決済を求めなければ……」
閻魔大王が右手を上げると、頭から引っ張られて、元の身体に戻った。
――不意に目を覚ますと、そこは自分の部屋だった。チューハイの缶が散らばっている。
「……夢だったのか?いや、本当に死んでいた?」
全身、びっしょり汗をかいていた。胸に手を当てる。通り抜けない。生きている。
地方公務員は、机の上に置いてある裁判所からの通知書を見た。
こんなものを受け取ったから、あんな夢を見たのだろうか?よく分からない。
だがこれから警察に行き、再度現場検証をして取り調べを受ける。恐らく有罪となり、刑務所に入る事になるだろう。一体何年、何十年入る事になるのか分からない。
地方公務員は、暗澹たる気持ちになった。だが気になる事があった。
あの姉妹だ。閻魔大王が連れて来たあの二人の幼い姉妹は、本当にいたのか?確認しなければならない。
いずれにしても、被害者の遺族には、どこかで謝罪をしなければならないだろう。取り返しのつかない事をした。それは許される事ではない。一目相手の姿を見なければならない。
――それから5年後、元地方公務員は、被害者の家族に会って、謝罪する機会を得た。
姉妹がいた。生きていた。いや、転生していた。生まれ変わっていた。一目見て分かった。
「あ、お兄ちゃん。やっと来た。久しぶり」
記憶がある。同じ声だ。閻魔大王の法廷であった時と同じだ。
「本当に申し訳ございませんでした!」
その元地方公務員は、全身全霊、思い切り謝罪した。四人家族が黙って見ている。
「いいよ。とっくに許しているから。エンマさんも頭を冷やせって言っていたもんね」
その発言に両親が驚いた。みんな姉妹を見る。今のは妹の方だ。朝顔と言う。
「……やはり閻魔大王の話は夢じゃなかったのか?」
元地方公務員が尋ねると、朝顔が答えた。
「知らない。この世とあの世、どっちが夢なんだろうね?」
『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード33