[英詩]ディランの洗礼問題
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マガジンの読者の方はタイトルを見て、ぎょっとされたでしょう。およそ英詩と関係なさそうな題だからです。
毎月、本配信の2回めと3回めでディランの歌の分析を行うにあたり、ときどき、この問題を取上げてきました。ですが、毎回、扱う詩行との関連でしか論じるゆとりがないので、不十分なままになっていました。
そこで、今回、簡潔な形ではありますが、この問題をまとめて論じてみます。といっても、広大なテーマなので、実際に洗礼を受けたとされる頃のそれのみにとどめます。
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初めにお断りしておきますが、この問題は、事柄の性質上、実際のところを解明するのは困難です。今回は、文献による確認の度合いの違いを示すことで、現段階の研究の方向を瞥見できればと考えています。
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問題に入るまえに、なぜこれを扱うのかを一言のべておきます。
英詩を考えるのに、目のまえの詩テクストがあれば十分で、それ以外は分析に際しては不要であるという立場があります。英文学史上 New Criticism と呼ばれる立場で、かつては学界の主流のメソドロジーでした。
この方法の前提は、詩テクストが自律的なものということです。テクストだけで自足しており、それ以外は関係ないという立場をとります。
それに対して、伝統的な研究方法は、詩テクスト以外に、詩人の伝記的事実や、詩が作られた当時の、詩人をとりまく社会情勢なども考慮に入れるものでした。伝記的研究 (biographical research, biographical method, biographical approach) などと呼ばれます。
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New Criticism は20世紀の中頃に主として米国の大学で栄えた方法論です。
ところが、この方法によっては絶対に解けない詩人の存在がありました。20世紀前半の最高の英詩人 William Butler Yeats の存在です。彼の詩を解くには、彼をめぐるアイルランドとイングランドの政治情勢や、彼が愛をささげた女性の存在を考慮に入れることが不可欠でした。それなしには詩が成立たないからです。
よく考えてみると、そのような詩人は他にも大勢いました。
さらに、20世紀の詩学を切開いたモダニズムの詩をみると、それ自身で自律する詩はほとんどなく、古今東西のテクストへの広範で複雑な引喩が含まれる詩が多い。
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そのようにして、現在では、詩を autonomous なものとのみ見て読み解く方法は、分析の第一段階としては有効であっても、深い分析にはまったく不足であることが明らかです。
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同じことが、ボブ・ディランについても言えます。ディランにとっては、個人の魂の救済の問題はどうしても避けて通れないほど大きな問題です。初期の作品から最近の作品にいたるまで、そこかしこにその問題への意識が見え隠れしています。その問題の核心にあるものの一つが洗礼です。
それから、ディランは、多くの男性詩人と同様、ミューズの存在が大きい。ミューズがいてこそ詩作できるといってもいいくらいです。詩の霊感がどこからやってくるかと言えば、古代ではまさにミューズ(詩神)と考えられましたし、現代でもミューズにあたる女性を考えないといけない場合が多い。
ディランの場合は、女性でそういう存在がいなければ、男性のグルに向かうことも一時期ありました。が、女性がいる時期は、その女性について知っておくことが理解の助けになることがあります。(今回、女性の問題も扱う予定でしたが、あまりにも広範にわたるので、別の機会にゆずります。)
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ただし、実際の詩の読解にあたっては、これらの問題が解を与えてくれるというわけではなく、それらをふまえた上で考えるのは、あくまでこちら側の責任です。
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前置きが長くなりました。それでは、ディランにおける洗礼の問題をごく簡単に概観してみましょう。
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洗礼問題
洗礼 (baptism)とは何か。くわしく述べると、新書一冊分くらいを要する。多くの宗教で水洗いの儀式が行われてきた。
ここで直接関連するのは、洗礼者ヨハネ(John the Baptist, バプテスマのヨハネ、イエスに洗礼を授けた)の洗礼運動以降の話である。
『新カトリック大事典』(第3巻、2002年) から引用する。
〔ヨハネの洗礼〕四福音書によれば、紀元後30年頃、ヨハネという人物が「荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(マルコ1.4-5)。
米国のTV局の History Channel が、ヨハネが人々に洗礼を授け、そのあとイエスに洗礼を授ける場面を短い動画にしている (下)。
動画リンク [John The Baptist at The River Jordan, History Channel, c. 2015]
ここでは、洗礼者が受洗者をヨルダン川 (下) の水に浸けるようすが見られる。水洗いの方法は、そのような全身を水に浸すやり方 (浸礼) や、頭に注ぐ形式 (滴礼) など、古来、実践の多様性がある。
[The River Jordan (source)]
ボブ・ディランの場合にどういうやり方であったかは不詳である。ともあれ、確かなのは、〈父と子と聖霊の名によって人を水で洗うことにより授けられるキリスト教の根本的な入信の秘跡〉(『新カトリック大事典』第3巻) であることである。
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では、次に、ディランが洗礼を受けたといわれることについて、否定する説、おそらくそうだろうと推定する説、はっきりと証言し肯定する説の3つを見てみよう。
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