[書評] GBCは二千年前の声を蘇らせた
読み終わった途端に、すぐに最初から読み返したい衝動に駆られる書物がある。これはその種の書物だ。
マリアの福音書完全版(GBC, The Gospel of the Beloved Companion)は4世紀以降、宗教団体の幹部争いのために書き換えられた聖書とは違う、本来の聖書である。
イエスの言行録とされる書物は、正典の福音書を始め複数あるが、本書は、これまでに読んだものの中では最も真正のものと感じられる。
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「マリアの福音書完全版」(The Complete Gospel of Mary Magdalene)と副題があるのは、従来から知られている『マリアによる福音書』の欠落部分を含め、完全な全体が収められているからである。
こう書くだけで、信じられないとの声が聞こえてきそうだ。事実、本書は現時点では聖書学や神学が扱う文献の範疇外に属し、一般には殆ど知られていない。
しかし、知る人の間では知られており、読んだ人は、聖職者や研究者を含め、本書の真正性と重要性については、深い衝撃を受けているように察せられる。
それほど重要な本書のことが一般に存在を認められ、正当に扱われるのは、おそらく現在の組織宗教としてのキリスト教の姿が根本的に変わったときだろう。例えば、ヴァティカンが情報開示した場合などだ。
本書の訳者は、本書の真正性については何ら弁護していない。読めば分るということで、正当性の主張は不要ということもあるが、訳者が属する共同体が長く虐殺や弾圧を受けてきたため、これ以上の主張を控えていると考えられる。
教会による徹底的な破壊の歴史があるため、よくぞ二千年のあいだ命がけで守られた書物が世に出たというのが率直な感想だ。南フランスの出版社から出されたのが2010年のことだ。電子書籍版もあるが、日米のアマゾンでは出ていない。
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宗教団体の幹部争いは富と名誉を得るためであるが、本来のイエスの言葉はそれらとは無縁の、愛の教えであり、その教えを理解すれば永遠の生が得られると、イエスが語るものである。その教えを、最初から最後まで一番近くにいたマリア・マグダレナ(マグダラのマリア)が記録したのが本書である。
既存の福音書読者からすると、内容的に一番近いのは、いわゆる第四福音書(ヨハネによる福音書)であるが、同福音書のうち宗教団体の幹部争いゆえか編集されている部分のオリジナルと思われるものが記されており、さらに同福音書にはないイエスの教えが最後に含まれている。
第四福音書と(従来の)『マリアによる福音書』に関心があり、イエスの教えの本来の姿を知りたい読者には、本書はぴったりである。
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本書は、英訳と、訳者による解説からなる。解説は、原典のギリシア語に関するものが含まれるが、イエスの時代のギリシア語の知識が仮になくても読めるように、平易に書かれている。
平易といえば、翻訳の本文も、解説の文章も、この上なく平易であり、だれが読んでも分るようなことばで書かれている。
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本書を読めば、従来、キリスト教の一般書などで説かれてきたイエス像とはかなり違う姿に出会うことになるだろう。
たとえば、笑うイエス。これはふつうの聖書には出てこない。本書やユダの福音書などを除けば、殆ど目にすることはないだろう。
それから、イエスのことばそのもの。トマスによる福音書(イエス語録)などを見ると、内容の深そうなことばが並ぶが、文脈と切離されているため、えてして難解である。だが、本書のことばは、どういう状況でイエスが話したかが分るため、自然に理解しやすい。これは非常に大きい。正典の四福音書と比べても、意味不明のことばがほぼ全くない。
本書を基準に考えると、他の文献が分りにくいのは、人為的な編集の手が加わっているせいかもしれない。本書は、原著者(マリア・マグダレナ)の書いたそのままのものが伝わっている、つまり、編集の手が加わっていないと推測される。
そういう書物が世に出ることが都合の悪い人びとにより、本書は長い間封印されてきた。本書の存在そのものが殲滅の対象となったことは想像に難くない。
本書の出版元は、南フランスのアリエージュ県にある。アルビジョア十字軍がおこなったカタリ派信徒の大量虐殺の最終段階で、カタリ派の最後の砦であったモンセギュールが、このアリエージュ県にある。
本書の最後の謝辞のページにオック語(南仏の言語、プロヴァンス語)で、次のように書いてある。
Mon Cor comanda ma Votz.
(わが心がわが声に命じる。)