【米大統領列伝】第二回 ジョン・アダムズ二代目大統領(後編)
はじめに
予告通り、ジョン・アダムズ後編では大統領時代にやったことについて書きます。
前回は以下により
閣僚編成
毎回恒例の閣僚編成は以下の通りです。
副大統領 トーマス・ジェファーソン(1796–1801)
国務長官 ティモシー・ピカリング(継続–1800)
ジョン・マーシャル(1800–1801)
財務長官 オリヴァー・ウォルコット(継続–1800)
サミュエル・デクスター(1800–1801)
陸軍長官 ジェイムズ・マクヘンリー(継続–1800)
サミュエル・デクスター(1800–1801)
司法長官 チャールズ・リー(継続–1801)
郵政長官 ジョセフ・ハーバーシャム(継続–1801)
海軍長官 ベンジャミン・ストッダート(1798–1801)
注:ジョン・アダムズ政権下で海軍を組織化し、海軍長官の役職が増えた。
内政政策
ワシントン政権の政策を引き継ぐ形で共和制の価値観を模範とした政治を行いました。そして閣僚編成からわかるようにワシントン政権時の閣僚を続投させる形で権力譲渡過程をスムーズにしたつもりでしたが、同盟国フランスの戦争に巻き込もうとする閣僚が多く、国務長官、財務長官、陸軍長官を1800年に総入れ替えしました。内政政策に関してはワシントン政権の期間内に出来なかった案件の処理がメインでした。ただ、少なからず、アレクサンダー・ハミルトンの仕掛ける陰謀の力学が働いていたことも付け加えないといけない。
注:陰謀と陰謀論には違いがあり、陰謀は策略を仕掛ける場合に使い、陰謀論は陰謀に乗せられた人が唱える場合に使うので、この点には注意を。
ハミルトンはワシントン政権にて事実上の政策立案者となるケースが多く、ハミルトンは連邦党の影響力を誇示する為にも、閣僚を通した間接的な手法でアダムズをワシントンのように思い通りに動かそうとしてました。アダムズが選挙で不利になるようにハミルトンは情報工作してますし、アダムズ政権末期には暴露投書を作る等して、両党に中立な姿勢を貫こうとするアダムズに嫌がらせ行為を繰り返してました。
ハミルトンの暴露投書
全文を読みたい人は以下のリンクを参照ください。
軍事・外交
外交に関してはハミルトン一派は英国、ジェファーソン一派はフランスとの関係性を重視すべきという主張合戦はまだ続いており、ジェイ条約を締結した後に英国との交易船がフランスの私掠船に襲われる事態にまで米仏関係は悪化しました。
フランス船に乗り込む米国船籍
注:宣戦布告のない海戦が繰り広げられており、名称はいくつかあります。擬似戦争(Quasi-War)、フランスとの宣戦布告なき戦争(Undeclared War with France)、海賊戦争(The Pirate Wars)、半戦争(the Half-War)等。
元々、ワシントンに対し中立を守るべきだと進言したのはアダムズであり、ジェファーソンらと民衆はフランスとの同盟関係を重視し、ハミルトンらは英国との交易を重視してましたので、どちらにつくべきかの議論で中立を守るべきというアダムズの主張は当時の世論及び議会からも賛同を得られなかった。しかし、アダムズは英国との戦いにしろ、フランスとの戦いにしろ、建国間もない米国の軍事力では対抗はできないと冷静かつ、現実主義的な考えの元に中立を進言してました。アダムズ政権では中立を守るための努力は怠ることはなかった。
しかし、外交努力をするアダムズを笑うようにタレーラン外相はフランス貴族や政治家に対する賄賂の請求、独立戦争時の公債まで請求してきました。フランスとの関係を取り持ってもらえるようにジェファーソンを特使として送ろうとしましたが、拒否されました。代わりに国務長官が送られました。賄賂を請求してきた事件のことをXYZ事件と呼びますが、それでもジェファーソンはタレーランの問題であって、フランス政府には非がないと主張し、派遣された特使が問題だと言い出す始末です。中立を守りたいアダムズはフランス側対応に対し、自国の港の要塞化や商船の武装化を進め、陸軍がいつでも行動できるように待機させた。
注:再び、ワシントンは司令官として呼ばれます。
フランスでナポレオンが君主制に戻したことにより、もう一度特使を受け入れると伝えさせ、外交官のウィリアム・ヴァンス・マレーを平和使節として派遣し、双方の戦争する合理性の無さを確認する形で宣戦布告するレベルの戦争を回避させることに成功します。
軍隊に関しては実質ハミルトンが陸軍を統制している状態であり、軍服の統一をアダムズに進言したのもハミルトンになります。ただ、ハミルトンの影響力を過度に受けることを懸念したアダムズは一部ハミルトンの要求を拒否したことに起因して、内政で先述した暴露投書を出されてしまいます。
移民政策
ジェイ条約を結んだ後、国内のフランス同調者達による反発が起きてました。同盟国フランスの為に自発的に戦うという者も現れ、連邦党の議会での説得もあり、外国人・治安諸法が可決され、1799年にアダムズは著名した。以下の4法で構成されてます。
・外国人帰化の統一規則を設定する法律(別名:1798年の外国人帰化法)、(1798年6月18日成立)(1802年撤廃)
内容:帰化する在留資格を5年から14年に変更
・外国人に関する法(別名:友好的外国人法)、(同年6月24日成立)(2年間の時限立法)
内容:米国の平和と安全にとって危険と判断された在留外国人を強制退去させる権限を大統領に与える法律
・外国の敵に関する法(別名:敵性外国人法)、(同年7月6日成立)(現在も有効)
内容:米国の戦争相手国の在留外国人を拘束し、強制退去させる権限を大統領に与える法律
・アメリカ合衆国に対する特定の犯罪の罰則を定める法(別名:治安法)、(同年7月14日成立)(1801年3月3日までの時限立法)
内容:政府又はその執行部門に対する虚偽、中傷や悪意のある文書の出版行為を犯罪と認定する法律
注:時限立法とは施行期間を決めた立法であり、更新する場合は手続きを行うが、手続きを行わない場合は廃止されます。
説明は別名を使います。
1798年の外国人帰化法は連邦党による民主共和党の支持者層を減らす効果が期待されてました。これは民主共和党の支持者層はフランスを応援しているフランスから帰化移民が一定数存在していたと考えられてたからです。友好的外国人法に関しては1798年の外国人帰化法を抑止の段階で補完する権限として扱われてました。敵性外国人法は1798年の外国人帰化法を戦時の段階で補完する権限として扱われてました。治安法は連邦党による国内統治に必要な法律という位置づけでした。尚、アダムズ本人は乗り気ではない法律が多かったが、法的手続きがされた以上、アダムズは著名をすることを義務と考えていた為、著名してました。
注:法が施行されても、執行(実際に法律を適用させること)するとは決まってない段階です。これはアダムズ政権での国外退去命令書(法律を執行する為の命令書)に署名することは無かったことからうかがえる。
教育
政策面でワシントン政権と差異はなく、アダムズも教育の重要性を認識していました。
経済
経済に関してはハミルトンらの主張する交易を通した国の発展を実現しようとしてましたが、フランスとの関係悪化で私掠船による襲撃で経済は大打撃を受けました。フランスとの関係修復がされるまで、経済は芳しくない状況が続きます。
軍隊の費用調達の為、新たな資産税を直接税として課税する決議を連邦党が議会で通した。これにより、国民は怒り、フリースの乱と呼ばれる抗議運動が起きました。幸いなことに無血で済みましたが、新規課税に対する国民の反応は未だに受け入れざるべからずといったところです。
ホワイトハウス建設
アダムズの任期中にホワイトハウスは完成します。建設中にアダムズ夫妻が訪問した際に黒人奴隷が建設要員として、空腹な中、黙々と命令口調で𠮟りつけてくる現場監督にこき使われてる場面を目撃することになりました。元々、奴隷制反対のアダムズ夫妻には見るに堪えない光景で国の統治をそんな建物で治められるかと疑問を抱いてたとされます。建設中だったが、アダムズはホワイトハウスにて公務を行う初の大統領になります。
注:アダムズの名言として「この屋根の下に統治する者は、ただ誠実なる賢者のみである」は今でも使われ続けています。
大統領辞任後の動向
1800年の大統領選挙でトマス・ジェファーソンとアロン・バーに敗れて、初の再選失敗した大統領選挙となりました。敗因は様々ありますが、1799年に米国政治の器として機能していたワシントンが死去したことによる分裂や戦争を望む多くの声に対するアダムズの和平交渉継続等が大きかったです。
ピースフィールドに戻ったアダムズは農夫として隠居生活を送ります。ジェファーソンがアダムズの評判をこけ下す文書を作ったことに起因して、妻アビゲイルのアドバイスとして何かを書くべきという考えを参考に日記で回顧録を書き始めることになりました。ジェファーソンが大統領職を離れた後、アダムズはそれまでの非難に対する反論を書き始めました。妻アビゲイルの死去をきっかけにジェファーソンとの手紙のやり取りが再開され、和解します。
晩年にジョン・トレンブルが描いた独立宣言の絵画の評価を求められた際、全く忠実ではないと言い切りました。実際に一致団結して決めたというのは間違いであり、独立戦争中で首都の出入りが激しく、首都に居合わせた時に各々が著名していたと指摘しました。アダムズは後世を作り話で惑わせないでほしいとし、ヨーロッパでよく言われてた近代史ほど不正確なものはないという考えまで出して苦言を呈しました。帰り際には米国独立の歴史の真実は永遠に失われたと言って去りました。
米国独立50周年の日に「人類の歴史の中で記念すべき出来事が、今後最も輝かしいページになるか最も黒いページになるかは、来るべき時に人の心によって形作られる政治的制度を利用するかあるいは悪用するかに掛かっている」と述べ、人の良心によって米国の命運が決まると言いました。
息子のジョン・クインシー・アダムズが大統領辞任中にジョン・アダムズは死去。ロナルド・レーガンに追い越されるまで最も長生きした大統領でした。歴史の皮肉なのか、ジョン・アダムズは独立50周年記念の日に死去。最後の言葉は「ジェファーソンが生き残る」だそうです。この言葉の意味するところはジェファーソンの考えが米国で生き残ることを指してると思われます。遺体はハンコック墓地にて埋葬され、後にクィンシーの統合第一教区教会の地下に移ります。
あとがき
ジョン・アダムズ大統領について書きましたが、いかがでしょうか。ワシントンとジェファーソンの間ということもあり、あまり評価されてない大統領ですが、その功績や知見は現代まで影響を及ぼしてることは間違いないです。ジョン・アダムズとワシントンの関係性は菅義偉と安倍晋三の関係性に似てるように感じるのは私だけだろうか?ワシントンという器の元で団結し、器が無くなると有力候補による分裂争いが起きる構図は安倍晋三器論と後任の菅義偉首相にも通ずるところがあります。次回はトマス・ジェファーソンの生い立ちから大統領職に至るまでの話を書きます。
アダムズ政権の実績まとめ
・アメリカ海軍の創設
・フランスとの擬似戦争の遂行
・外国人・治安諸法への署名、1798年
・外交によるフランスとの戦争回避
・ジョン・マーシャルを最高裁判所判事に指名
本編で書く余裕のない小話
・ジョン・クインシー・アダムズは引き続き、立派に育ちます。
・トーマス・アダムズも立派に育つ。
・アビゲイル・アダムズ・スミス(長女)は立派に育つが、婚約者が政界での地位向上を狙った政略結婚を目的としていた。ジョン・アダムズは見抜いていたが、周囲の賛同で渋々嫁に出したとされる。
・チャールズ・アダムズは没落します。ハーバード大学で裸になって、悪友と絡む。法律をやりたくないと言い出し、投資に手を出して失敗、ジョン・クインシー・アダムズから借りた金を原資にしていた為、家には戻れないと思い込み、別居のアパートにて酒浸りになりながら怪しい商売を行っていたとされ、改善の余地なく死去します。尚、死去したのはジョン・アダムズがまだ大統領任期中の出来事。
追記:ジョン・アダムズのことが気になった人はHBO制作のジョン・アダムズという作品を参照すれば、よりジョン・アダムズが好きになると思います。