見出し画像

お互いが家族のような関係性になれた古き良き時代、実際にあった人生の終わりかた

東京に引っ越して感じたカルチャーショックといえば、お盆が7月だということ。

7月の上旬。いつものスーパーの生花売り場に、たくさんの仏花が並んでいるのを目にして
「あれ、もうお盆だっけ? いつの間に8月になった? 」と、しばし頭が混乱。

今年の新盆は7月13日~16日
旧盆は8月13日~16日。
地域による時期の違いは明治時代の改暦によるものらしい(諸説あるようですが)。

そして引っ越して困っているのがお墓参り。東京から電車で行くのはとにかく遠い。最寄り駅からバスに乗ったとしてもバス停から歩ける距離ではない。タクシーに乗ったら渋沢先生何人とさようならするか分からない距離。レンタカーで行くのは、車の運転をやめて久しいので気後れしてしまう。
引っ越す前は、毎月のようにお掃除も兼ねてお参りしていたんですけど。

長らくご無沙汰しています。お父さん、お母さん、本当にごめんなさい。その代わりと言っては何ですが、毎朝、心の中で手を合わせているので、それで勘弁してください🙏

思えば、父と母の葬儀はコロナ前と後ということもあり随分と様子が違った。
父の時は普通に親戚の皆とお別れできたけど、母の時はコロナ禍で私と兄だけだった。

参列者の数は大幅に違ったけど、葬儀代はあんまり変わりなかったような気がして、どこにそんなお金がかかっていたのかなぁと不思議だった。葬儀屋さんの提案するままのプランにしたのがいけなかったかな。
しかも真っ白いお花をたくさん飾ってほしい。菊だとか、いかにもお葬式っぽいお花は無しで。という生前の母の願いをきっちり守った私。
オプション扱いのお花代を見た時は、「足元を見られたかも」と、残念な気持ちになった。

中学生の頃、初めて参列した父方の祖父のお葬式は全然違っていた。
物凄い田舎で当時まだ土葬だった。
父の実家の小さな家で、3日間かけて葬儀が執り行われた。近所の人たちが次から次へと沢山集まって来た。初日は男衆がもてなし、二日目は女衆がもてなし、三日目は親戚がもてなす。という習わしだった。
父は日頃、実家とは疎遠だった埋め合わせの思いもあったのだろうか、ウチの家族だけが3日間田舎の家に泊まり込んでいた。

私は、はじめて出会う人たちに囲まれ、どうしていいか分からなくて、毎日台所でひたすら料理をよそって運んで、片づけて、お皿洗いをしたり、お手伝いをすることに専念していた。

いよいよ出棺という時、お年寄りは若い衆に手ほどきしながら竹ひごで細工物を作り、白い布や紙を使って、のぼりや飾り物を作った。
視界を遮る物が何もないのどかな田んぼのあぜ道を、参列者全員で列をなして故人の棺と共に、遠く離れたお寺まで歩いて行った。
家にいた時とは打って変わってお互いに言葉を交わすこともなく、静かに、静かに、歩いて行った。

二日目の朝、物音で目が覚めた。
柱時計を見る4時を過ぎたころ。何ごとかと、音のする台所へ行くと、なんと近所の人が勝手知ったる他人の家とばかりに、お赤飯を炊いているではないか。(ドアに鍵はかかっていないんだと、その時初めて気づいた。しかもお葬式でお赤飯なんだ…と)

そんなこんなで皆が誰に言われるわけでもなく、自分のやることを分かっていて全てのことがスムーズに行われていた。今日は自分たちがもてなす日だから、と言いながらも、結局は阿吽の呼吸で皆が協力しながら時間は流れていった。
いつ誰がどれだけ持って来たのかも分からない程の、取れたての野菜や食材を使って、朝から晩まで台所はフル回転していた。

たくさんお酒を飲んで、たくさん食べて、広間はずっと宴会状態で、本当ににぎやかに故人を偲ぶ葬儀だった。
けれども、そこに葬儀屋さんは存在していなかった。だから、立派な祭壇などなかった。

あったのは、気心の知れた家族同然の人間関係の温かさのみ。でも、誰もがお互いを大切に思っていることが、言葉やその振る舞いから感じられてお別れの場なのにとっても居心地の良い空間になっていた。
高額なお金のやり取りなどなくても、皆んなの思いのこもった心に残る葬儀が執り行われていた。
そして、3日目を迎える頃には、私もすっかりお仲間の1人として馴染んでいたのだ。

古き良き時代、と言う言葉で片付けてしまうには惜しい、日本人の在りし日の姿をふと思い出した新盆のひと時。
今年は、お墓参りに行こう。


いいなと思ったら応援しよう!

Mica Moriya*ミカモ
いただいたサポートは今後のクリエイター活動のために使わせていただきます。