愛の反対は無関心
昨年の秋に母が亡くなって早8ヶ月が過ぎた。
急な入院だったけれど、まさか亡くなるとは思いもしなかった。
どうしようもなく落ち込んだし
今もまだ抜け出せないでいる。
重苦しい思いのまま8ヶ月も過ごしてきたなんて
信じられない。
昨日、ふと何十年も前にも母が入院したときのことを思い出した。
子宮筋腫だった。
かなり進行していたので全部摘出することになった。
今とは違って結構大がかりな手術だったと思う。
術後に執刀医から摘出したものを見せられ
どれほど悪化していたのかが一目で分かった。
父親は青ざめていた。
原因は勿論いろいろとあるのだろう。
身体を酷使したとかストレスだとか。
その時私は「具合が悪いなら悪いって言ってくれればもっと家の手伝いをやったのに」などと、突然入院して手術を受けた母に対して不満を抱いたのを覚えている。
でも思い返してみれば
母親がいつも忙しくしていたことは知っていた。
疲れている姿も見ていた。
見ていたし知っていたのに
そのままスルーしていたのは私たっだのだ。
きっと私は冷たい人間なのだ。
目の前の様子を捕らえていても
何も対処しなかったのだから。
見ていたのに、なぜだろう。
それを無関心というのだろう。
自分では親孝行な心優しい娘でいると思っていた。
だって一緒に住んであげているし
いつもご飯作って一緒に食べているし
頼まれれば要望に応えるし。etc.
けれどもそれは
一緒に住んでいるというだけで、
母親が何を思いなにを求めているのか
想像を巡らせたりはしてこなかった。
自分のなかでルーティンを決めてそれをこなしていただけ。
その後悔が今心に重くのしかかってきているのだろう。
愛の反対は憎しみではなく無関心。
なんとなく視界にはいっていても、
小耳に挟んでいても
知ってはいても、
なにも行動に移さない。
それが無関心。
私は毎日生きていること、
何不自由なく生活できていること
それを当たり前のように
当然のごとく受け取るだけで
社会の出来事に、
この地球の状況に、
無関心でいるのではないだろうか。
身の回りの一つひとつに
無関心ではなくその反対の
愛の思いを向けていったら
今私の生きているこの世界は
きっと、もっと、
素晴らしい姿を現すに違いない。
この世を去っても尚、
私の改めるべきところを
教えてくれた母の愛に感謝。