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カウコンというステージと『静謐なる虚飾楽園』

明けましておめでとうございます。2025年もよろしくお願いします。

さてこのnoteはにじさんじのカウントダウンライブの夢追さんのソロパートの感想のみを書くnoteとなっております。

夢追さんが、地上波放送もあるカウコンで『静謐なる虚飾楽園』を歌いました。

この一文の破壊力凄くない~?私はこの事実だけで24時間以上経っても狂っている。

『静謐なる虚飾楽園』は物語の序章であり、同時にアマデウスが作り出した「抗えない旋律」と呼ばれる曲そのものでもあります。聞いた人を狂わせる曲とその旋律に狂わされた人たちの物語『音楽が消えた街』。アルバムに収録されている全8曲を持って、あの物語は幕を下ろした。そう考えていました。しかし、その物語の終演から数か月後の2025年1月1日。『静謐なる虚飾楽園』はカウントダウンライブというステージに現れた。あのステージが私にはそう見えました。
8曲目『Andante』の最後にアマデウスは「次の世界が私の作品を待ちわびている」と言い残しています。この世界そのものがサイレントシティの次の世界で、アマデウスが夢追翔という人物の姿を借りて降臨したという解釈は飛躍しすぎだろうか。私にはあのステージがアマデウスの降臨に見えて仕方なかった。
そもそもMVの時点では夢追翔feat.アマデウス(CV.夢追翔)という表記で、夢追さんはアマデウスとは同一人物ではないという解釈がなされていた。これに関しては本当に今MVを見返して気が付いたことなのですが。あのステージが夢追翔とアマデウスの一体化なら、それは『音楽が消えた街』と同じではない別の物語が始まった瞬間なのではないだろうか。そんな考えが生まれました。

また、ライブで『静謐なる虚飾楽園』を披露する様子は、カサノバの物語を彷彿とさせます。地上波で流れたという点ではフェミニィの聞いた校内放送が思い出されます。仮にこの世界がアマデウスの言った次の世界ではなくても、あの日あのステージが『音楽が消えた街』という物語と地続きになったことは変わらない。あの日夢追さんはアマデウスとして、20万人近い視聴者に「抗えない旋律」を聞かせたのです。夢追翔というバーチャルライバーを知っている人にも、知らない人にも等しく。『音楽が消えた街』という物語の始まりの曲として、これほど綺麗な披露の仕方があるでしょうか。
その事実から、これほど綺麗に一つのパフォーマンスを物語に組み込むことができるのかと驚かされる。そしてその綺麗さが私が未だにあのステージに囚われ続ける理由になっていると思うのです。

夢追さんのソロライブは私の夢でもあります。いつか一人で大きな会場を掌握し自らの音楽で満たす瞬間を見たいです。でも『静謐なる虚飾楽園』は無料配信と地上波放送がある、あのステージで披露することに意味があったと思わされました。MCとして出演すると発表されたステージで、音楽を禁じた物語を演じ、『音楽で人は殺せるだろうか』と投げかける。「自分の曲を世界中の人に聴いてもらうのが夢」という言葉は、公式紹介文に書かれたものですが、夢追さんの活動はどこまでも音楽が主軸にあります。多かれ少なかれ司会者としての印象が強い方ですが、夢追さんの名乗りは一貫してバーチャルシンガーソングライターです。あの日シンガーソングライターとしての自らを刻み付けろと言わんばかりの気迫溢れるステージに、強く心を掴まれた人も少なくないでしょう。パフォーマーではなくMCとしての出演だからこそ、あのパフォーマンスでシンガーソングライターであることを印象付る。そのために選ばれた曲が、音楽を禁じた街を破壊する曲。
夢追さんの曲はこれまでも混沌とした世界の中で一筋だけ光るものに焦点を当て続けていました。それは時に生であり、時に死であり、時に愛でした。その全ての要素を含んだ曲で会場を包み込んでしまった。夢追翔というシンガーソングライターの生き方を鮮明にステージに刻み込み、自らの作風を知らしめる。音楽とお別れなど到底できなさそうな人が、ライブのステージ上で歌い上げる「五線譜にお別れを」という言葉のなんと重たいことでしょう。夢追さんの事を少しでも知っている人にはその重たさで、知らなかった人には気迫と世界観と歌唱力で、自らの音楽を届ける。その力強さが、ファンとして見ていて心強かった。楽しかった。シンガーソングライターの夢追さんを応援してきたことを誇りに思いました。
きっとこれからもふとした瞬間にあの日を思い出すでしょう。


ここからは演出等々への感想をつらつらと書こうかなと思います。
まず『静謐なる虚飾楽園』が地上波で流れることに苦しくなった。そして通常衣装で物語の語りを、共通衣装で歌唱をと分けることで、自らをアマデウスそのものとする演出に心打たれた。これまではあくまでも夢追さんがアマデウスの声という事実はあっても、アマデウス=夢追翔という事実はなかったから。それがこの日事実になった。あの時夢追さんにはアマデウスが憑依していたと本気で思う。だからこそ、アマデウスの言っていた次の世界が、この世界なのではという考えが生まれた訳です。
ただ、MVの中でアマデウスは額縁の中に描かれないのに対して、共通衣装の夢追翔は額縁の中にいるような瞬間がある。ならばアマデウスが憑依したのは語り手として存在する通常衣装の夢追さんなのだろうか。それにしては共通衣装の夢追さんの動きもさながらアマデウス本人と言えるものである。その違いがなんなのか考えた時にふと思い出されたのが、2023年にじフェス前夜祭のステージでした。『人間じゃないよな』で、共通衣装の夢追翔は既に操り人形という演出がなされたことがある。
仮にアマデウスの操り人形としての歌唱担当と、アマデウスが憑依した語り手という二人の夢追翔がいるのだとしたら、なお面白すぎないだろうか。狂気的な演出すぎないだろうか。なんてね。

その次が『共感性終止』なのでまず神としての夢追翔はさくっと否定されているようなものですけれども。それでも解釈の余地は大体残してくれているのが夢追さんなので、今のところはこの妄想を許してください。「深く刺さって抜けないまま 思考を染めていく」まさにその通りのステージだったなと思います。


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