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『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』ノート


ターリ・シャーロット著
上原直子訳
白揚社刊

 副題は『説得力と影響力の科学』である。著者のターリ・シャーロットは、認知神経科学者だ。
〈はじめに〉で著者は、「人々は誰しも何らかの役割を担っている」が、「とても重要なメッセージを持つ人や、最も役立つ助言のできる人が、必ずしも絶大な影響力をもつわけではないように感じる」と書き、例として、「怪しげなバイオ技術に数十億ドルを投資するよう説得できた起業家がいる一方で、地球の未来のために取り組むよう国民を説得できなかった政治家もいる」ことを挙げている。

 著者は、人間の行動について研究を重ね、人が決意を翻したり、信念を新たにしたり、記憶を書き換えたりする仕組みを知るため、多くの実験を行ってきた。

 それらの研究で明らかになったのは、多くの人が「こうすれば他人の考えや行動を変えることができる」と信じている方法が、実は間違っていたと結論する。
 そして、他人の考えを変えようとするときに犯しがちな誤りと、それが成功した場合の要因を明らかにするのがこの本の目的だと書いている。

 著者は、自身の体験から語る。それは2015年9月15日に、CNNでの共和党の大統領候補の第2回候補者討論会の番組を見ていたときのことだった。出演者は共和党の二人の最有力候補者、小児神経外科医のベン・カーソンと不動産王のドナルド・トランプだ。

 司会者がカーソンにこう問いかける。
「ドナルド・トランプ氏は、子どものワクチン接種と自閉症に関連性があると、公の場で何度も主張しています。これに対して医学関係者は強く異を唱えていますが、小児神経外科医であるあなたも、トランプ氏はこの発言を慎むべきだと思いますか?」
 カーソンは答えた。
「これまでに非常の多くの研究が行われてきました。しかしワクチンと自閉症の相関を示す結果は報告されておりません」
 司会者が、トランプ氏はその発言を控えるべきか、とさらにカーソンに発言を促す。
「いま申し上げたとおりです。その気があるのなら、そうした研究論文をお読みになるといい。彼は頭のよい方ですから、真実を知れば正しい判断を下せるでしょう」と至極当然の発言をした。

 しかしシャーロットは、次のトランプの発言を耳にしての自分自身のリアクションに驚く。
「私に言わせてもらえるなら、自閉症はいまや流行病ですよ……すでに制御できなくなってきている……小さな可愛らしい赤ん坊を連れてきて、注射をする――子供用なんかじゃなくて、その注射器は馬に使うようなばかでかいものに見える。実例ならたくさんありますよ」と、自身の会社の従業員の2歳半の子がワクチンを受け、その一週間後に高熱を出し、その後ひどい病気になり、いまでは自閉症だという例を挙げた。

 著者が即座に示した反応は本能的なものだったという。看護師が馬用の巨大な注射針を私の赤ちゃんに突き刺すイメージが頭に浮かんで離れないようになったのだ。予防接種に使われる注射器が普通サイズのものだということくらい、百も承知のはずなのに――著者はパニックに陥ったのである。そして、うちの子が自閉症になったらどうしようという考えが頭をかすめたこと自体がショックだったという。
 当然、医師であるカーソンは、ちゃんと反論をした。
 しかし、ドナルド・トランプは実業家であり、その主張は偏見と直感の産物なのに、長年、科学者としての訓練を受けてきた著者がトランプに説得されそうになるのは何故なのか。それを著者は次のように分析する。

 カーソンが「知性」を狙ってくるのに対して、トランプはその他すべての部分に訴えかけて、それを定石どおり、次のようにやってのけたのだという。
「トランプは、状況をコントロールしたいという人間の根源的欲求と、そうしたコントロールを失うことへの不安を巧みに利用した。彼は他人の失敗を例に挙げて感情を誘導することによって、聴衆の脳の活動パターンを自分と同期させ、彼の視点を通じてものを見るように仕向けたのだ。そうやって、彼の忠告に従わなければ悲惨な結末が待っていると信じ込ませようとした」というのだ。
 通常は、不安を植え付けるのは、人を説得するアプローチとしては弱く、希望をもたらす方がずっとうまく行くのだが、「何もしない」ように仕向けようとしている時と、説得する相手がすでに不安定な状態にある時に不安を植え付けるほうがうまく機能するという。

 第1章では、カーソンのやり方がなぜ失敗しやすいのか、数百万人の視聴者の状況を改善する好機を逸した原因を研究し、紹介している。

 ドナルド・トランプが登場して以来、〝フェイクニュース〟というワードが一気に広まった。トランプの発言を〝フェイクニュース〟と指摘し、フェイクであることの根拠を示しても、トランプ自身は、それこそ〝フェイクニュース〟といい、歯牙にもかけない(ように見える)。
 これでは一般の人たちは何を信じていいのかわからなくなってしまうのだ。

 今年の元旦の夕刻に発生した「令和6年能登半島地震」に関するニュースでも、SNSでこの地震に関係のない津波の映像が拡散したり、さらには偽の募金活動が広がったりしており、政府も注意を促している。これは、国民の不安な心理につけ込んだ愉快犯や、同情心につけ込んだ詐欺犯の仕業なのだろう。

 このような偽情報を含むニュースの拡散や情報のやり取りの心理について、著者は、他人に情報を与える機会は、内的な報酬をもたらし、自分の意見が広まるなら、進んで金銭的利益を見送る傾向があるということに言及している。これは言い換えれば〝承認欲求〟になるだろう。

 またツイッター(現在はXと改称)について、著者は「インターネットの扁桃体(扁桃腺ではない!)」と表現している。メッセージの短さや伝わる早さ、範囲の広さなど人間の身体の扁桃体(注)の役割を果たすのに必要な材料が全て揃っているからだと説明する。ツイッターが持つこうした特徴は、人間として生きるうえで大いに必要なフィルターを迂回し、感情システムに何度も働きかける。このツールは有益な情報を伝達するのに役立つかもしれないが、一方では人間の慎重ではない側面を助長すると分析している。
 そして、事実や論理は人の意見を変える最強のツールではないことを、多くの実例を挙げて結論づける。

 いまSNSなどが発達し、誰もがそれらを駆使してコミュケーションをとり、お手軽に情報収集をするのが当たり前の時代である。また誰でもSNSを使って情報の発信者になれる。その状況は決して後戻りすることはない。ネットリテラシーが必要とされる由縁である。

(注)扁桃体は、脳の左右にある神経細胞の集まりで、目の奥あたりにあり、大脳辺縁系の一部と考えられている。情動と感情の処理や記憶、直観力やストレス反応に重要な役割を果たしており、主に、「恐怖」「不安」「緊張」「怒り」などのネガティブな感情に関わっている。扁桃体は、何かを見たり聞いたりしたとき、その情報の内容というよりも、それが自身の命に関わるものであるかを意識に上がる前に一瞬で評価する役割があるといわれている。

 扁桃体に関する研究としては、量子科学技術研究開発機構のものがあるので、興味のある方は開いて見ることをお薦めする。

感情の中枢である扁桃体におけるドーパミンの役割を解明 - 量子科学技術研究開発機構

https://www.qst.go.jp/site/qms/1656.html

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