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『厚田村』(上・下)ノート


松山善三 著
潮出版社 刊

 著者は映画監督で脚本家の松山善三である。上巻は1978年6月15日、下巻は同年8月25日に刊行されている。

 下巻の裏見返しに、「生身の人間が描かれている。再読! 1978年10月14日」とメモ書きがある。もちろん筆者の字だ。
 今回あらためて読んだが、登場人物や物語の展開をまったく覚えておらず、「再読」どころか、初めて読んだ気がした。ガラス扉付きの本棚の奥に収めてあったのだが、天に少し茶色の埃が溜まっていた。
                                    
 描かれている時代は日露戦争開戦前後から太平洋戦争集結の頃までである。
著者は「小説」としているが、北海道・厚田村に生まれたある女性の波乱の半生を描いており、同時代を生きた実在の人物が登場していることから、ノンフィクションを読んでいるようであった。物語は明治から昭和の時代の歴史的出来事の流れに沿って描かれており、いわば、実在の人物をモデルにした〝ノンフィクション・ノベル〟である。
 主人公以外の登場人物も個性際立つ存在感のある人間ばかりであり、当時の人々の生業や自然の描写が物語に厚みを加えている。著者の並々ならぬ筆力に引き込まれて一気に読み終えた。

 北海道・厚田村で生まれたセツ(世津)は、鰊が海一面を覆って岸に押し寄せるような豊漁の時代が過ぎ去りつつある頃に少女時代を送った。

 セツの母親のマツは、世津が3歳の時にいなくなる。生活苦のため借金を重ね、高利貸しの男に騙されて小樽まで連れて行かれ、身を持ち崩してしまう。
父親の軍治は妻を探すために荒天に舟を出して小樽に向かい、遭難してしまう。
家に残されたのは、父方の祖母のタミとセツと弟の勝男の3人のみ。タミの夫は元会津藩士で、天朝(明治新政府)を敵と思っており、息子の軍治に徴兵の知らせが届いたときには、天朝の兵隊になることはない、お前の兄がいる千島に逃げろというほどの気骨のある女性だ。

 セツは厚田村一帯の大網元である佐藤松太郎に身の回りの世話を頼まれ、僅かな給金で祖母と弟の生活を支えようとするが、極貧生活からは抜け出せない。
 松太郎はセツの心遣いとその気丈さに感心し、学校に行かせてやろうと提案するが、セツは他人のお金で学校に行きたくないと断る。その代わりに一日に2時間の暇をもらいたいと願い出て、松太郎は許す。

 近所に住む3歳年上の甚一をセツは兄と慕っており、以前から甚一は学校に行けないセツに、砂浜を黒板代わりに勉強を教えてくれていた。甚一は教え方に秀でていた。セツが松太郎のもとで働き始めてからは、時間がなかなか取れなくなったが、セツはどうしても勉強を続けたかったので、松太郎に2時間の暇を願い出たのだった。

 もともと利発なセツは、成長するにつれ暗記力と暗算が人並みはずれて得意になった。漁業だけでなく海運業から海産物や穀物まで扱うようになった実業家・松太郎は、その才能を見込んで、セツに商売を手伝わせるようになった。セツはそのおかげで商才が身につき、のちに大いに役に立つことになる。
 またセツの何ごとにも真剣で、分け隔てのない誠実さに溢れた生き方にふれた様々な人たちが、セツの人生における重大な局面でいつも手を差し伸べてくれた。

 この実に波乱に富んだ生身の人間を巡る物語を事細かに追うときりがないが、最後にひとつだけ書く。

「僕はいつか『世津さん』の生涯を、小説にくわしく書きたいと思っていた」(下巻P301)――この〝僕〟は著者の松山善三だ。

 今年の春、松山善三は厚田村に行き、世津さんを訪ねたが、彼女は会ってくれなかったと書いている。しかしその理由は書かれていない。
 当時、世津さんは76歳。週に一度、中年の紳士が来て、世津さんを乳母車に乗せ、村を散歩していると村人から聞いた。

「今年の春」というのはこの作品が発刊された1978年のことであろう。
「網を引いてきた漁夫たちが、魚をはずしていた。」――春の厚田村の情景描写の一行でこの作品は締めくくられ、〈完〉という文字が置かれている。
小説にしては不思議な構成だ。
 この文章の流れはまるで映画の語り手の回想シーンの台本のようだと思っていたら、松山が映画監督だったことに思い至った。

 明治、大正、昭和と時代が移り変わっていく混沌と混乱に翻弄されながらも、逞しく生き抜く女性の強靱な生命力に感動を覚えた。

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