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『春のこわいもの』ノート

川上未映子著

新潮社刊

 

 芥川賞作家の、6つの作品からなる短編小説集。

 最初の物語の『青かける青』は、昔なら怠け病として診断されていたであろう〝ちゃんとした体の病気〟で手術をして、もう1か月近く入院生活を送っている女性の、自分を好きになってくれた男性への独白あるいは手紙形式の短編である。

  病室は安全で、用がなければ誰も自分に話しかけてこない、面倒な検査もない毎日規則正しい生活で、それをまるで〝はしっこのない方眼紙〟を見つめているような毎日だと主人公はいう。

 そしてここの時間も一定の方向に流れる感じではなく、病室にあるいろんな物たちとぴったり一緒になって存在していると感じている。

  ときどき、自分はどうやって生きていくんだろうということを考えながらも、ベッドで眠っていられる自分をばかみたいだと自嘲する。そしてそんな状態を、車椅子に乗っている人の脚から筋力がなくなっていくように、まっとうに生きていくための筋力が自分自身からなくなっていくのを感じている。

  いま病室の中や見えているすべての光景は、自分が死ぬ時に見えるすべてである可能性があると思うと不思議で、自分がどこにいるかも分からなくなり、ひょっとして認知症の老人になっているのかも知れないと思う。そう思うと自分は若い女性なのか、おばあちゃんなのか分からなくなる。しかしわたしはわたしで、わたしだけがわたしだと言い、それで君に手紙を書いていると言いながらも、本当の世界は不思議だという。

  自分は遠くないいつか、きっと退院するはずなのに、そんな日が来るのかなと考えてしまう自分がいるとも言う。

 手紙の最後に、「影に影をかさねても、何も残らなかった」と書き、彼との逢瀬を重ねたがその恋は実らなかったことを匂わせている。また、自分を好きになってくれた彼にありがとうといいながら、「戻れない場所がいっせいに咲くときが、世界にはあるね」と逆説的な表現で、自分の死を暗示している。

 題名の『青かける青』は、主人公の意識の奥底に通奏低音のように流れている生と死についての不安とある種の開放感あるいは諦念を表現しているのではないかと思いながら読んだ。

  次作の『あなたの鼻がもう少し高ければ』は、今の時代の価値観の一部を占めるルッキズムに追随して美容整形に明け暮れ、もともとの自分の顔を覚えていないのではないかと思われている女性と、整形に踏み切れない女性の物語だ。

『ブルー・インク』と名付けられた物語は、「書いてしまうと、残ってしまうから」と頑なに書くことを否定してきた彼女から主人公が初めて手紙を手渡される。しかしその手紙には彼が期待していたことや、彼女や自分の名前さえも書かれていなくて、彼女が創作した物語のような詩のようなものが書かれているだけであった。その最初の手紙からおよそ一年後に2通目の手紙をもらったがそれを彼はどこかでなくしてしまい、そのことを彼女に伝えると、夜の学校に二人で探しに行くことになったが、見つからないままだ。

 これは手紙という形あるものが、字の上手い下手に関係なくお手軽なメールにとって代わられ、その役目を終えつつある時代における象徴の物語として読んだ。

  そのほか、病床で死を覚悟する主人公がいちばん自分らしいと感じていた、〝わたしがわたしだった時代〟の話を好きな言葉で語る、短いながら印象深い『花瓶』や、今の時代に欠かせないツールとなったスマートフォン、SNS、ブログ、また一部の若者を食い物にしているネットワークビジネスなどを織り込んで、迎合と反発と追随という心理の間で展開する物語が収められている。

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