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『とんでもねえ野郎』ノート


杉浦日向子著(作画)
ちくま文庫

 はじめて漫画を取り上げる。著者の杉浦日向子は漫画家、エッセイストであるが、江戸風俗や浮世絵の研究家として知られ、江戸の庶民や商人の生活や風俗をはじめ侍の生態を単純ながら味わい深いタッチで描いて余すところがない。
 著者には多くの漫画やエッセイなどがあるが、今回取り上げた表題の作品は、江戸蒟蒻島にある眞武館という道場の主である桃園彦次郎という名の、武士の風上にも置けぬ破天荒な男が主人公である。
 道場といっても、門弟は近所の子どもばかりで、この彦次郎が本当に剣術に秀でているのかどうかは分からない。

 道で見かけた芸人が旦那から祝儀をもらっているのを目にした彦次郎は酒をたかり、その店の火鉢を芸人と一緒に盗むなんてことは朝飯前。〈其の弐、カモの集う日。〉では、見習い与力になったばかりの幼馴染みの大恩寺浅之丞が見回りしているところを見つけ、見習い与力の就任祝いに一杯やろうとたかる。浅之丞は嫌な奴に会った、仏滅だと内心思いながらも、人のよい浅之丞はつい笑顔で挨拶を返す。
 密かに彦次郎の妻の若菜に思いを寄せていた浅之丞が、「よりによってこんな奴と夫婦になったのか」とムカついてつい刀の束を握りしめたのを彦次郎は見逃さず、「なにその手は?」と言い、浅之丞は、新しく刀を買ったのでお前に目利きして貰おうと思って、と取り繕う。
 それが浅之丞の運の尽き。刀を抜いて見せようとした瞬間に、彦次郎は自分の刀を抜いて振り下ろすと、彦次郎の「関の兼平」と称する刀が真っ二つに折れた。彦次郎は、お前が買った刀は世に二振りとない名刀だとおだて、近くの神社にあった手水に使う「奉納」と刻まれた石の器を切ってみろと促す。その名刀なら、こんな石を豆腐のように真っ二つにするのは訳もないという彦次郎の言葉に、浅之丞は石が切れるはずはないと思いながらも、石に向かって振り下ろすと刀は当然のことながら折れてしまう。涙を流す浅之丞に、彦次郎は「名刀みずから名手を選ぶ」ということだなぁと嘯き、厄落としに一杯やろうと懲りずに誘う。彦次郎の「関の兼平」と称する刀はただの金貝(かながい。銀色をした竹光)であった。
 浅之丞と一杯やったあと、通りすがりの知り合いの商人にその顛末を話して、「あいつも人が好(え)えから出世しめえよ」と言って、その話を面白かっただろうとたかるネタにして、その商人をまたまた鴨鍋に誘うのであった。
このように〝とんでもねぇ野郎〟の行状が次々と描かれるが、どこか憎めないのが主人公の彦次郎なのであった。

〈其の五、雲隠れの日。〉では、見るからに剣術に長けた男が眞武館に来て、一手教授をと願う。応対した彦次郎は、相手をする前に「貴殿の武勇譚など伺いたい」といって、近くの芸者のいる店に誘う。そして、散々飲み食いした頃、門弟の子どもが血相を変えて、「先生!! 横町で騒動が起きやして……きてくださいッ」と飲み屋に飛び込んでくる。彦次郎は、「お客人、ほんの小半時(現在の30分)ほど許されたい」と言い置いて飛び出していくが、そのまま店に戻らずとんずらするのである。出かける前から、門弟の子どもに言い含めておいたのだ。
 後日、橋の上でバッタリ出会った件の厳つい侍は、「先日の悪計、身に覚えがあろう。ないとは言わせぬ。尋常に勝負せよ!!」と迫る。彦次郎は、「貴殿の腹立ちはもっとも至極。サレバ相手になろう」と言いつつ、襷(たすき)を掛け、草履を後ろ帯に挟んだ瞬間、踵を返してすたこら逃げ出すのであった。
 このような全部で十七の〝とんでもねぇ話〟が収められている。

 この作品のほか、文明開化の時代の日本に生きていた人々を時代の空気とともに描き出した『東のエデン』。江戸吉原の虚々実々の世界を描いた『二つ枕』。江戸庶民の日常を愛情込めて描いた『ゑひもせす』。江戸末期の彰義隊の若き隊員たちの悲壮な姿を描いた『合葬』。ちょっと怖くて不思議な話を集めた『百物語』(全3巻)。江戸川柳をモチーフにした『風流江戸雀』。葛飾北斎の娘のお栄を主人公に、江戸風俗や浮世絵師など多彩な世界を描いた『百日紅(さるすべり)』(上・下)など、どの作品も面白く、登場人物も魅力的で、まだまだこの漫画家の作品を堪能したかった人も多いのではないか。
 杉浦日向子は2005年に46歳で死去した。まだまだこの人の作品を読みたかったのは私だけではないだろう。

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