『大盛り! さだおの丸かじり――とりあえず麵で』ノート
東海林さだお
文春文庫
誰しも特定の心理状態の時に開きたくなる本があるのかもしれない。
筆者の小学校から大学生までの長い時期は、ジュール・ヴェルヌの『15少年漂流記』であった。子ども向けの抄訳本から全訳本まで、何度読み返したかわからない。どういう心理状態だったかというと、きまって身の回りで何か面倒なことが起こったり、気分がどことなくモヤモヤして試験勉強などに身が入らないときだった。この物語の世界に逃避していたのかもしれない。関連本も含め、このnoteにも二度にわたって取り上げた。
それと一、二を争う読み返し回数が多い本は、『どくとるマンボウ青春記』である。これを読むと、どんなに落ち込んだ時も、目の前の雲が晴れて青空が覗いた。
さらに社会人になって、本が自由に買えるようになって、いろんな分野の本を読み続けている中で、頭が疲れると本屋に行って探す本が、この東海林さだおの『丸かじり』シリーズであった。
当時、週刊朝日を駅で買って通勤電車の中で読んでいたが、この週刊誌に「あれも食いたいこれも食いたい」という連載記事があった。これを文庫化したのが「丸かじり」シリーズである。著者名で50音順に並べた文庫本専用の本棚を見ると、このシリーズだけでも『たこの丸かじり』、『ナマズの丸かじり』、『キャベツの丸かじり』、『ワニの丸かじり』、『鯛ヤキの丸かじり』、『伊勢エビの丸かじり』の6冊があり、この著者の本は全部で35冊並んでいた。
先日、休みの日に都内まで出かけるときに、電車の発車時刻まで少し時間があったので、せっかくの休みだし、ゆっくり座っていけるし、何か気楽な本をと駅の本屋で探していると、懐かしいタイトルの本を見つけた。それも「大盛り!」だ。奥付を見ると、2024年2月10日初版。これは間違いなく読んでいない(筆者はよく同じ本を買ってしまうことがある。10冊以上はあると思う)。
さてこの本は、これまで刊行されたイラスト付きエッセイ集の『丸かじり』シリーズから「麵」だけを取り上げた『大盛り!』シリーズの一冊である。
〈ラーメン賛歌〉〈隠せないタンメン愛〉〈冷やし中華を科学する〉〈麵と日本人〉〈ソーメン七変化〉〈鍋焼きうどんに至る病〉〈そば・うどんの王道を行く〉の各章からなる。
東海林さだおの文章の訴求力はすごい! 最初の〈ラーメン賛歌〉を読み終えたとき、無性にラーメンが食べたくなり、〈隠せないタンメン愛〉を読んだ時は、タンメンの湯気の匂いが鼻腔を刺激し、〈鍋焼きうどんに至る病〉を読んだ時は、次に麵屋に行ったときは絶対に沸々と煮えたぎる鍋焼きうどんを注文するぞと思ったくらいだ。
去年、職場近くにある蕎麦屋から鍋焼きうどんのメニューが消えてしまったのはショックであった。もう40年は食べ続けていたのに、だ。昨年、経営者が替わったからだと思うが、12月になって、「鍋焼きうどん」気分になって、少し染みの目立つ暖簾をくぐると、食品サンプルが並んだショーケースに、「鍋焼きうどんは休止しております」という一枚の貼り紙が……。「休止」だからまた始まるのだろうと淡い期待を持って、正月休みが明けて行ったときは、見慣れない券売機が置かれていた。
千円札を持ってずらりと並んでいるボタンを上から探していったが、「鍋焼きうどん」が見つからない! 店員さんに「鍋焼きうどんは?」と聞いたら、「ありません」ときっぱり言われて、すごすごと鴨汁のボタンを押した。
閑話休題――東海林さだおは漫画家であり、文筆家。それも名文家である。そして〝食〟に限らずあらゆるものに対する旺盛な好奇心と飽くなき探究心、市井の人間の深層心理をえぐる分析力、一隅を照らす観察力、そして的確な言葉の造語能力とマンネリのようで決してマンネリに落ち込まない軽妙な文章力、さりげなく染み出る教養、そしてそこはかとなく行間に漂うペーソスからこの本は成り立っている。
ラーメン特集の雑誌のカラーグラビアを見て、矢も盾もたまらず、サンダル履きで家を飛び出し、一刻の猶予もならぬと小走りで、近くのラーメン屋に飛び込んで行きたくなる「ラーメン」という存在を学術的に分類し、「麺〈類〉矢も盾〈属〉サンダル〈科〉小走り〈目〉飛びこみ〈綱〉」と表現する発想にはまいった。
ということで(なにが「ということで」なのかはわからないが)、東海林さだおの本の面白さを紹介するのは難しいのである。だから、この本を読み終えて書きはじめた文章まで、なんとなくゆるんでしまった。
ただ一つ不満なのは、麵特集なのに、なぜかチャンポンが取り上げられていない。長崎皿うどんはともかく長崎チャンポンは載せるべきだ! 筆者は東海林さだお先生に断固言いたい! チャンポンをないがしろにして「麵特集」と銘打つんでない!
読者の方で、長崎に出かけることがあったら、「思案橋ラーメン」と「三八ラーメン」のちゃんぽんを食べてみてほしい。何故か本場長崎には「チャンポン専門店」はない(と思う)。このラーメン屋のチャンポンがうまいのだ。あと、中華街にある中華料理屋のチャンポンも具にそれぞれ特色があって侮れない。もちろん、チャンポン発祥の店といわれるグラバー園近くの四海樓のチャンポンも美味しい。赤いとんがり屋根のチェーン店のとはひと味もふた味も違うのが分かると思う。
チャンポンが食べたくなったでしょう?