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『安倍晋三回顧録』ノート

安倍晋三著
橋本五郎(聞き手)
尾山宏(聞き手・構成)
北村滋(監修)

中央公論新社刊

 筆者は過去の政治家の回顧録や日記の類は好んで読むが、このnoteにはこれまで取り上げたことはない。その理由のひとつは、政治の世界は常に多面的かつ流動的であるのに加え、回顧録は興味深いが、どうしても自己正当化や自己弁護が混じり込み、客観的な内容とはいえないことにある。さらにいえば、政治信条を異にする人にとっては批判の対象でしかないので、取り上げないようにしていた。

 ところで欧米の指導者は大統領や首相を辞めると、時を置かず回顧録を出版する。それが伝統であり、指導的地位にあった者の責任だという認識であろう。しかし、わが国の政治家はそのようなことはない。関係者に迷惑をかけてはいけないという配慮が働いているのか。

 この回顧録は安倍晋三の総理辞任後、菅義内閣発足直後の2020年10月から2021年10月まで1回2時間で18回、36時間にわたってのインタビューをまとめたものである。
本は2022年1月にはほぼ完成しており、まもなく刊行される予定であった。しかし安倍氏本人からちょっと待ってほしいとの要請が入ったそうだ。その後、夏の参院選の選挙中にあの不幸な事件が起きてしまったのだ。その後、昭恵夫人の了承を得て、刊行の運びとなった。その意味で総理辞任後、あまり時を置かずして回顧録が私たちの目に触れることになり、近年の政治の表裏の動きについての資料的価値は大きい。

 内容は政治状況に通じたインタビュアーのお二人の力量だと思うが、よく整理されており、厳しい質問にも安倍前総理も非常に率直な言葉で答えている。
 
 安倍晋三の内閣総理大臣在任期間は、歴代最長の3188日、8年9か月に及ぶ。その期間に11回の組閣をしている。
 安倍第一次政権では、〝戦後レジームからの脱却〟を掲げ、教育基本法改正、防衛庁の省への昇格、国民投票法の制定などの懸案を処理した。また第二次政権下では、特定秘密保護法の制定、集団的自衛権の限定的容認、平和安全法制の整備、テロ等準備罪の新設、アベノミクスに象徴される経済政策などに取組み、働き方改革や全世代型社会保障などでも一定の成果を挙げてきた。さらには天皇陛下の生前退位というセンシティブな課題もあったが乗り越え、令和の時代となった。

 それらの成果を挙げた長期政権の裏には、総理を支える布陣の強固さ、人事の妙が見え隠れする。また異論もあろうが、安倍総理自身のリアリストとしてのバランスのとれた政治センスと明確なビジョン、人を魅了する気配りの人柄などがその中心にあり、周りの人の意見も尊重する柔軟性もある。

 安倍総理が誕生する前の1年ごとに替わる総理大臣が諸外国から信頼を得られなかった中で、安倍総理の長期政権はわが国の国際的な信頼性を取り戻し、その「地球儀を俯瞰する外交」や「自由で開かれたインド太平洋」という響きのよいキャッチフレーズを掲げての多くの国を訪問したことによって、外交成果をあげて存在感を示した。
 国際会議や首脳会談等で会った各国首脳の人物評も出色で面白い。バラク・オバマ大統領やそのあとのドナルド・トランプ大統領の人物評と付き合い方、ロシアのプーチン大統領との北方領土返還交渉の駆け引きなどが興味深い。それに関連して外務省の硬直した姿勢や思考への批判や財務省への不信感を露わにした発言もある。

 安倍総理は特に外国における演説が高く評価されているが、その陰には有能なスピーチライターやスタッフがいたことを隠さない。安倍総理の英語のスピーチライターは谷口智彦内閣官房参与、国内での演説は佐伯耕三総理秘書官であり、その才能を高く評価し、「日本の政治家も、もっとスピーチライターを使うべき」と言っている。

 スピーチライターといえば、米国の第35代大統領のJ・F・ケネディの就任演説を起草したセオドア・C・ソレンセンが有名だが、政治関係の本を開いてみると、わが国でも何人かいたことが知られる。
 古くは、1960年10月12日、日比谷公会堂での3党首立会演説会の壇上で刺殺された日本社会党委員長・浅沼稲次郎の追悼演説を、当時の池田勇人総理が行ったのだが、その原稿を新聞記者であった伊藤昌哉が書いたことは有名である。
 そのほか、鳩山由紀夫総理の時の松井孝治と平田オリザ、菅直人総理や野田佳彦総理の時の下村健一が知られる程度である。

 中曽根康弘元総理(1987年に退陣)は、2004年に刊行した『自省録――歴史法廷の被告として』に、「政治家の人生は、その成し得た結果を歴史という法廷において裁かれることでのみ、評価される」と書いている。
 
 安倍晋三という政治家は非業の死によって終わりを迎えた。自身の終焉を予感したようなこの回顧録は、歴史法廷へ早々と提出した安倍氏本人のいわば陳述書であり、この回顧録を読み込んだ上で、安倍政治の戦後政治史における役割や功罪を議論すべきと考える。

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