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オンブラ・マイ・フ〔第5話〕

 僕は東京芸大ピアノ科に合格して上京した。
 誰にも東京の住所を教えないようにと留守番の女性にも伝えていた。結衣子にも言わなかった。引っ越す前に一度電話がかかってきていたのは知っていたが、僕は出なかった。
 ただ、結衣子の気持ちを確認したかった。彼女を思う気持ちを伝えたかった。たとえ振られてもよかった。このまま気持ちが宙ぶらりんのままなのが耐えられなかった。誰かに電話番号を聞いて彼女の家に電話をすればよかったが、それもできなかった。
 夏休みに帰ろうと思えば帰れたがやめた。音楽祭のオペレッタで結衣子が主役と聞いていたので観に行きたかったが、皆に囲まれている彼女の笑顔を見て、自然に振る舞うことはとてもできないような気がした。
 これまで自分は意思の強い自立した人間と思っていたが、それは見事に壊れていた。傍にいない人間にこれほどまで感情が振り回されるとは、それも自分の独り相撲と分かっていてのことだからどうしようもなかった。僕だけに向いていて欲しかった。僕だけに笑顔を見せて欲しかった。
 わざと素っ気なくしたつもりもないのに、彼女と自然に接しようと思えば思うほど、どうしようもなくなっていった。
        *
 ボクは、東京の大学に合格した。受験勉強中も西野のことは気にはなっていたが、いまはとにかく志望校に合格することが第一と集中した。我が家の経済状態では浪人をするのは無理なことは分かっていたから、〈サクラサク〉の電報が届いた時、母は手を叩いて喜んでくれた。
 東京に行く前に、西野の家に報告に行った。変な未練もなかったが、その後の彼女の様子も聞きたかったし、ひょっとして家に帰っているかもという期待もあった。
 母親がいて、東京の大学に合格したと報告したら喜んでくれた。そして結衣子からは連絡はないが、東京にいる自分の妹の家にお世話になっていて、妹が時折近況を知らせてくると言った。メモ紙に東京の住所と電話を書いて、一度会いに行ってほしいと頼まれた。
 その時は、会えるかどうかは別にしても、東京に来たということを伝えるだけでもいいと思った。

 ボクは大学近くのモルタル造りの古アパートに居を定めた。コの字型の二階建てで、中庭に手押し式ポンプ付きの古井戸があり、その周囲は自転車置き場になっていた。二階の左奥の南向きの部屋がボクの住まいだった。荷をほどいて物を置くと、ようやく自分の部屋になったような気がした。六畳に一間幅の押し入れと一畳分の板張りがあり、机と椅子と小さな本棚が備えられてあった。洗面所とトイレ、台所は共同だった。風呂は近くの銭湯に行った。
 オリエンテーションも終わり、授業のペースに慣れた頃、西野の住まいに行ってみようと思い立ち、図書館で地図を開いて最寄りの駅を調べた。
 彼女の叔母さんの家は中央線沿線にある五階建ての少し古びたマンションだった。郵便受けで苗字を確かめ、部屋を探した。インターフォンを押すのに少し躊躇った。結衣子が出て来たら何と言おうかと迷っていたからだ。
 鍵を開ける音がしてチェーンが掛かったドアが少し開き、年配の女性が顔を出した。高校の同級生ということと名前を名乗り、西野結衣子さんはおられますかと聞くと、近くに買い物に行っているがすぐ戻るとの返事だったので、外で待たせてもらいます、と言うと、いいから入りなさいとチェーンをはずしてくれた。
 西野とボクの関係を聞かれ、部活の仲間だったとか、大学に合格して東京に来たことなどを話していると、ドアのきしむ音がして結衣子が入ってきた。ボクは思わず膝を揃えて、久しぶりと声をかけると、結衣子はいつか来ると思っていましたと、よそよそしい挨拶を返してきた。叔母さんはボクらのぎこちないやり取りを聞いて笑った。結衣子はボクの事を母親から聞いていたのかも知れない。
 彼女はキッチンに入って買い物袋を開け始めた。叔母さんは、そのままでいいからこちらにおいで、コーヒーを入れるからと立ち上がった。叔母さんと入れ替わりに西野は向かいのソファに座り、話すのを促すようにボクを見つめた。
 東京の大学に合格したことを報告しにお家に行った時に、母上から住所を教えてもらったと言うと、私からはほとんど電話もしないし、心配しているよねと言い、小さな声で合格おめでとうと結衣子は言ってくれた。
 そして、連絡するといいながらしなかったことを詫び、どうしていいかわからなかったと呟いた。ボクは、そんなことはいい、とにかく元気でいたので安心したと言うと、全然元気じゃない、高校も中退してしまい、音大にも行けなくなったと両手で顔を覆った。しかし、涙を流している様子でもなかった。
 彼女は大きく息を吐くと、川野君が来てくれてうれしいと一転明るい声になって言った。ボクは、佐野先輩に会えたのか聞きたかったが、口に出せずにいた。
 コーヒーのいい香りが漂ってきた。彼女はカップを出し、叔母さんにも座ってと促し、音楽部時代のことを話し始めた。
 オペレッタのことに触れ、あれで私の高校生活は終わったと言い、ボクと一緒に新聞に載ったことを話題にしながら、叔母さんに向かってしきりにボクのことを褒めはじめた。ボクは照れくさくなり、話題を変えた。今後どうするのかと聞くと、叔母さんはずっとここにいていいと言ってくれているし、川野君も東京に来たから、東京で何か仕事を探そうかなと言った。
 叔母さんは、長年公立学校の教員をしているので、お金のことは心配ないと言ってくれるけど、そういう訳にもいかないとも言った。
 叔母さんは口を挟まず、終始笑顔でボクらの話を聞いていた。
「音大は諦めるの?」
「諦めてはいないけど」
「だったら大検を受ければ」と言うと、
「うん、考えてみる」と結衣子は頷いた。
 ずっと調律をしていないけどピアノもあるし、練習を始めたらどうかと叔母さんが口を添えてくれた。
 結衣子が住所を書いてとメモ紙を差し出したので、最寄りの駅と簡単な地図も描いて〈電話なし〉と最後に書いた。
 彼女は、会いに行く時は手紙で都合を聞くしかないねと笑った。来てくれるなら嬉しいと心の片隅で思ったが、ボクは返事をしなかった。叔母さんから夕食を一緒にと誘われたがお暇をした。結衣子は引き留めなかった。
        *
 私が東京に来てからもう半年近くになる。何度か家に帰ろうと思ったが、高校を中退してしまったので、音大への進学はもう叶わなかった。幾度か東京芸大のキャンパスに行ってみたが、佐野先輩に会えるはずもなく、学生課に住所を尋ねても、在学しているかどうかも含めて教えられないと素っ気なく言われた。
 叔母はたったひとりの姪の私のことを可愛がってくれた。なけなしのお金を使い果たし、母に送金を頼むのも言い出せずにいたら、母から送金があったと封筒を渡してくれた。本当に母から送ってきたお金かどうかはわからなかった。私が気軽に受け取れるようにそう言ってくれたような気がした。いまは叔母に甘えるしかなかった。
 昨日、買い物から帰ると、川野君が来ていて驚いた。第一志望に合格したのだと思った。
 ソファで向き合っていても気まずさは残っていたが、彼がわざわざ実家に行って住所を訊いて、訪ねてくれたのが嬉しかった。部活時代のことをいろいろ叔母に聞かせるように話したが、彼は今後の事を訊いてきたので、考えてみると答えるのが精一杯だった。叔母が夕飯を食べていけばと誘ったが、彼は用事があるのでと断り、お礼を言っていた。川野君らしいと思った。
 住所と駅からの簡単な地図を書いてもらい、会いに行く時は手紙で前もって都合を聞くね、とできるだけ軽く冗談めかして言ったつもりだったが、彼は返事をせず、ちらと私の目を見て、今日は突然来てごめんと言ってドアを閉めた。佐野先輩のことをまだ気にしているのかと思い、手紙の約束を破っていたことを思い出して後悔の念が湧き出してきた。彼と私の間には、目の前の鉄製のドアよりも厚い壁があると思い悲しくなった。

 翌週の日曜日の午前中、私は川野君の部屋を訪ねた。いなかったらそのまま上野の美術館に寄って帰るつもりだった。
 大学の正門の斜め前にある古い旅館の脇の狭い路地を入ると中庭のようになっており、真ん中にある井戸の周りに自転車が何台も置いてあった。その庭を囲むように木の手すりが付いた二階建てのアパートがあった。部屋番号を確かめて鉄製の階段をあがり、二階の端から順に表札を見ていった。曇り硝子の小窓がついた木製のドアをノックしたら返事があった。人影が映り、ドアが開くと彼が驚いた顔を見せた。
 私が、来ちゃったと言うと、彼は、入れよと言ってくれた。ひとりなのかと聞くと、当たり前だろうと答えて、慌てて布団を丸めて押し入れに投げ込んだ。新しい畳と整髪料の匂いがかすかに漂っていた。舞う埃にくしゃみが出た。彼が窓を開けると、隣の家の屋根越しに大きな木が何本も見えた。その先が大学のキャンパスだそうだ。部屋にはデコラ貼りの小さな折りたたみ式テーブル、作り付けの机と本棚があった。郷里の彼の部屋を尋ねた時の事を思い出した。板の間の小さな冷蔵庫の横にフォークギターが立てかけてあった。
 彼は、どういう風の吹き回しかな、と言ったので、私は話をしたかったからと正直に答えた。彼は、そうかと答えて私の顔を見た。高校時代の彼の表情を思い出した。といってもこんな風に顔を見合わすことはそんなにはなかったはずだ。
 私が、今日は何か予定があるのかと訊くと、ないけど、まだ朝飯を食べていないと言った。食パンと牛乳があるというので、トースターはと訊くと、そこの電熱器でいつも焼いていると言い、トースターで焼くより美味しいよと言って食パンを載せた。すぐにいい匂いがしてきて裏返すと渦巻き状の焦げ目が付いていて、私は蚊取り線香みたいと笑った。
 彼は牛乳でトーストを流し込むように食べると、電気ポットでインスタントコーヒーを入れてくれた。電熱器と電気ポットを一緒に使うとヒューズが飛ぶそうだ。
 私にはマグカップで、自分の分は湯呑みにインスタントコーヒーを入れた。彼の自然な態度に私はほっとして、手紙に書いたことを守らずごめんなさいと頭を下げた。彼はもういいよと私の手に触れた。私は自分から彼の方に身を寄せた。彼が肩に手を回してぎこちなく唇に触れてくれた。コーヒーの匂いがした。二度、三度と唇を合わせていると、お互いの歯が当たり、どちらともなく笑いが出た。それはお互いのぎこちなさで出た笑いではなく、私にとってはお互い自由に確かめ合えたことの喜びだった。川野君から触れてくれたことがうれしかった。
 私は東京に来て初めて心の自由というものを実感した。この部屋に誰も知られずに二人きりでいるから何をしてもいいという自由ではなく、自分の想いを彼が自然に受けとめてくれた、ということに自由を感じたのだ。
 彼はそのまま暫く私をぎこちなく抱きしめてくれていた。私は彼の肌の匂いに包まれ、初めてなのに懐かしかった。心臓の鼓動が聞こえていた。
 髪を撫でられて目が覚めた。彼は変な格好だったから腰が痛いと言って体を離した。私は嫌だと拗ねてまた抱きついた。二人並んで寝転ぶ格好になった。このままどうなるのかと胸が少し痛くなったが、ただ私の頭を胸に抱きしめてくれていた。離れがたかった。
 どれくらいまどろんだのだろうか。また寝入ってしまったようだ。目が覚めた時、彼はいなかった。座布団を枕にしてタオルケットを掛けてくれていた。彼の匂いがした。
 川野君がトイレに行っていたと言って帰って来た。そう言えば部屋にはトイレも台所も風呂もなかった。彼は洗面所と台所とトイレは共同で、お風呂は近くの銭湯だと言った。大学近くで彼が払える家賃ではこのような部屋しかないそうだ。
 彼は、これからどうしようかと私に言うともなく呟いたので、私はずっと部屋にいて話をしたいと答えた。改めて話をしようとすると、何を話したらいいのかわからなかった。
 彼が意を決したように、佐野先輩に会ったのかと訊いてきたので、私は首を横に振って、実家に訊いても教えてくれないし、大学で住所を訊いても、在学していることさえ教えてくれなかったと正直に答えた。
「結衣子は佐野先輩に会いに東京に来たんだろう?」
「最初はそうだったけど、いまはもうどうでもいい」
「付き合っていたんだったら、会って先輩の気持ちを確かめて決着をつけたほうがいいよ」
 私は答えられなかった。
「だって住んでいる所が分からないから」
「じゃあ、ボクがあちこち調べてみるから、分かったら会うだろう?」
私は頷くしかなかった。帰りは地下鉄の駅の改札口まで送ってくれた。
        *
 ボクが結衣子の所に行った翌週の日曜日、結衣子がアパートを訪ねてきた。期待しないでもなかったが、思ったより早かった。
 彼女は手紙の約束を破ったことを謝ったので、ボクはもういいよと言って、慰めるつもりで思わず彼女の手に触れたら、結衣子がボクに体を預けてきたので、抱きしめて唇に触れた。結衣子もそれに応じてくれた。ぎこちない接吻だと思いながらも止められないまま、歯がぶつかり、お互い初めて気付いたように顔を見合わせて照れ笑いをした。そのままずっと抱きしめていた。彼女は心臓の音が聞こえると胸に耳を押しつけてきた。髪のいい匂いがした。髪を触っているうちに結衣子は寝息を立て始めた。目が覚めないようにと同じ姿勢で座っていたので堪らず足を伸ばすと、結衣子は眼を覚まして、また抱きついてきたので、ボクが腕枕をして寝転ぶ格好になった。心臓の鼓動が早くなり、体の芯が熱くなったが、そのままじっとしていた。ボクは天井板の節目を数えた。
結衣子がまた寝入ったので、腕をそっと抜き、座布団を枕にして寝かせ、タオルケットを掛けて音を立てないようにドアを開けてトイレに行った。
 部屋に戻ったら結衣子が起きていたので、トイレに行っていたと言い、このアパートの様子を説明した。大学が目の前で交通費もかからないし、ボクの予算ではこの程度の部屋しか借りられないと言った。結衣子は、三樹夫の勉強部屋がそのまま移ってきたみたいだと笑った。
 彼女に今日の予定を訊いたら、部屋で話をしたいと言った。東京暮らしでまだどれくらいお金がかかるか分からないので、電車に乗るのもできるだけ控えようと決めたばかりなので、少しばかりほっとした。
 ボクは結衣子に、佐野先輩に会えたのかと訊くと、住所も分からないのでまだ会えていないと言った。佐野先輩に会うために東京に来たのだろうと重ねて訊くと、頷きながら、もうどうでもいいと言うので、付き合っていたんだから、このままでは結衣子も宙ぶらりんのままだろうし、会ってちゃんと心の決着をつけるようにと伝えた。そして、ボクが何とか先輩の住所を調べるから一度会っておいでと言うと、結衣子は頷いた。〔全6話中第5話終〕

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