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『アメリカン・ビート1』ノート


ボブ・グリーン 著
井上一馬 訳
河出文庫

 著者のボブ・グリーンは1947年生まれで、わが国でのアメリカン・コラムブームの火付け役となった作家である。
 ボブは、高校時代は新聞部に所属し、地元紙のコピーボーイとして働いていた。そして大学在学中には、シカゴ・トリビューン紙の非常勤地方通信員――ストリンガーというそうだ――を務め、新聞学を学んで大学を卒業したあと、シカゴ・サン・タイムズに入社し、そこでのちにニューヨーク・デイリー・ニューズ紙の発行人となったジェイムズ・ホーグにその才能を見いだされ、23歳の若さでアメリカのジャーナリストの憧れであるコラムニストになった。
 その後、名コラムニストの伝統を伝えてきた新聞社であるシカゴ・トリビューン紙に移った。

 そこで頭角を現してきたボブは、全米約150紙に配信されるコラムを書くかたわら、エスクワイア誌に「アメリカン・ビート(アメリカの鼓動)」というタイトルの連載を始めた。スペースに制約がある新聞紙面から、制約なしに書けるエスクワイア誌に連載を始めたのが、ボブ・グリーンの才能を開花させた。

 筆者の手元には、『アメリカン・ビート1』、『アメリカン・ビート2』、『ボブ・グリーン 街角の詩(うた)』、『チーズバーガーズ①』、『アメリカン・スナップショット』の5冊がある。どれも1991~2年に購入して読んでいる。

 ボブは、モハメド・アリやビートルズ、リチャードニクソン元アメリカ大統領、ジョン・レノンほか、普通ではなかなか会えない著名人にも会って話を聞き、コラムで取り上げているが、この本のなかで筆者が特に印象深かったのは、日常で出会った市井の人々などの描写である。

〈あるバスの運転手〉というコラム(P139)では、ボブが州をまたぐトレイルウェイという会社の長距離バスに乗ったときのことを書いている。
 バスはアメリカの交通手段のなかで一番安価な乗り物で、アメリカの旅行者としては、どうしても行かなくてはならないが、懐具合でバスを選んだという人たちが乗っており、それほど裕福でない人たちだとボブはいう。

 さて、このバスの運転手である30代前半くらいのヒゲをはやした若者の話だ。ボブが感心したのは、彼の仕事に対する姿勢である。服装もこざっぱりしており、何事にもテキパキとして、乗客に対する態度も礼儀正しく、バスの運行時刻も腕時計を見ながら正確に守っている。乗り込んでくる客を気持ちよく迎え、降りる客がいれば、バスを停めると自分も急いで降り、荷物を下ろすのを手伝っている。停まるたびに乗客の数をかぞえて運行日誌に記録している。彼にとって私たちは彼の乗客で、この運転手はそのことに個人的関心を持とうとしているように見えたと著者は書く。

「彼はアメリカのど真ん中の忘れられた路線を走る長距離バスの運転手にすぎない。だが、そのマナーからすれば、これがパリ行きのボーイング747であってもちっともおかしくなかった。なにをそんなに不思議がっているのだろうか?」(P141)とボブは自分に問いかける。
 たとえこの運転手が怠けてぞんざいな仕事をしていても、だれも気にも留めなかったに違いないのに。
 そしてさらに不思議だったのは、運転手が自身の仕事に誇りを持っているという態度が、乗客にまで徐々に浸透し、乗客も少しはいい気分だったということである。
 このバスが料金所を通過するときに、運転手は窓から身を乗り出して、高速道路の何マイルか手前の地点に故障車がいたことを州警察に連絡してほしいと係員に伝えていた。乗っていたボブは故障車には気がつかなかったが、運転手は気づいており、その連絡も自分の仕事のうちと考えていたのだ。

 そのバスがようやく終点である大都市の中心街のバス停に着いたとき、運転手は降車口のステップの下に立ち、乗客全員が降りるのに手を貸し、全員にありがとうございましたと声をかけ続けていた。

 ボブが不思議に思ったその答はすぐにわかった。どんな仕事であっても仕事に誇りをもつ彼の態度こそ、アメリカの労働者から遠い昔に消えてなくなったといわれて久しいものだと気づくのである。

 それは〈教育の現場〉(P129)に描かれたある教師の、子どもたちに接する姿勢とその職業に対する誇り、そして教師という仕事が他の職業に比してその社会的処遇が低すぎるという指摘にも同じ視点がある。

 一人の人間の姿勢や振る舞いが周囲の人間に何らかの影響を及ぼすことは、私たちも日常的に経験していることかもしれない。それが、教育の現場では最も顕著に表れるのではないかと思う。

 この本には1970年代半ばのボブ・グリーンがコラムニストとして一番脂の乗っている時期の『エスクワイア』と『シカゴ・トリビューン』、『シカゴ・サン・タイムズ』に連載されたなかから選んだ34編のコラムが収められている。

 ボブ・グリーンの文章は淡々としているが、人間への愛情に満ちており、読んでいると、1960年代から70年代へのノスタルジーを感じさせる。

 しかしその一面で、アメリカの固定化された社会的較差あるいは分断を感じることがある。彼の文章の端々にエスタブリッシュの階層の考え方も見え隠れする。その意味で、この『アメリカン・ビート1』は、まさに現在のアメリカの病理の兆しを光と影の面から描いているともいえる。それが、ボブがコラムで表現したかった点かもしれない。

 最後に、〈ダンスは苦手〉(P223)というコラム――著者が小さいときにダンス・スクールなるものに強制的に入れられて以来、ダンスが苦手になった著者自身の話だ。
 ボブがオハマ市のダウンタウンにあるホテルに宿を取り、ホテル最上階のバーで一人酒を飲んでいるときに、地元の女性がやってきて彼をダンスに誘ったのだ。その時のことは本を読んでいただくとして、面白いのはこのコラムの最後に書かれている話だ。

 当時のスーパーグループである「クロスビー・スティルス&ナッシュ」(略称:CS&N/メンバー:デヴィット・クロスビー、スティーブン・スティルス、グラハム・ナッシュ)が全米ツアーをしている時、ワシントンのクラブで、ある女性がメンバーの一人であるグラハム・ナッシュをダンスに誘ったのだが、その時にナッシュはどのように断ったのか。
 ナッシュはクールに言ってのけた――「ミュージシャンは踊らないんだ」。

 このダンスの誘いを断る最高のセリフは、ミュージシャンなら口に出せるが、はたしてボブ・グリーンは自分だったらどう断っただろうかと自問する。
 しかし、本当にミュージシャンでなくてもこのような断り方は可能だろう。自分がミュージシャンであることを証明する必要はないのだから。著者は、「私もオマハで、そうすればよかったのかもしれない」と書く。

 蛇足であるが、筆者がこのCS&Nの音楽に触れたのは1969年8月15日から18日の4日間にわたってアメリカ・ニューヨーク州サリバン郡ベセルで行われた「ウッドストック・フェスティバル」(正式名称:Woodstock Music and Art Festival)という40万人以上の観客を集めたカウンターカルチャーの代表的野外音楽イベントのライブレコードで、だ。
 このライヴでCS&Nが「Judy Blue Eyes(青い瞳のジュディ)を演奏し、次にニール・ヤングが加わって、「クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング」(略称:CSN&Y)として、2曲目を演奏している。複数のアコースティック・ギターの響きとハーモニーが素晴らしかった。

 このウッドストック・フェスティバルについて、筆者は2021年3月25日にこのnoteで『ウッドストックへの道』という本を取り上げたので、ご興味のある方はお読みいただければと思う。

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