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『おろしや国酔夢譚』ノート
井上靖著
文春文庫
昨年末にnoteで取り上げた『シベリア追跡』(椎名誠著 集英社文庫)を読んで、その元になったこの本をもう一度読みたくなり再読した。
最初に書名のことについて。
「おろしや国」は当時のロシア帝国のことで、江戸時代には「おろしゃ」あるいは「をろしや」と呼称していた。
「酔夢」とは酔って寝ている間に見る夢のこと。「夢譚」とは 夢の内容を語ること、あるいは夢のような奇妙な物語のことをいう。
酔夢譚とは「酒に酔ってみた夢のような奇妙な物語」とでもいうのか。しかし、大黒屋光太夫ら17名の漂民たちにとっては、酔夢譚どころか悪夢譚とでも呼ぶべき過酷な10年であった。
『おろしや国酔夢譚』は、江戸の蘭学者・桂川甫周が幕命によって、大黒屋光太夫と磯吉から約10年にわたるロシア帝国内における流浪の生活や風俗や制度などを克明に聞き取ってまとめた『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』など当時の史料を元に、井上靖が書き上げた特異な歴史小説だ。
1966(昭和41)年の「文藝春秋」1月号から25回にわたって掲載され、1968年10月に文藝春秋社から単行本として刊行されており、1969年には第1回日本文学大賞(新潮社文芸振興会主宰)を受賞している。
鎖国令下の江戸時代中期から後期にかかる1782(天明2)年12月13日、伊勢藩の米を積んだ千石船・神昌丸は、大黒屋光太夫を船頭に伊勢の国白子の浦を出航して江戸に向かっていたが、駿河沖で時化にあり、舵をへし折られ漂流を余儀なくされる。
漂流生活8か月でアリューシャン列島(当時はアリュート列島と呼ばれ、ロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島に漂着した。
その後のことは、『シベリア追跡』ノートに詳しく書いたので、簡略に触れるだけにするが、光太夫が漂着して4年後、ロシア人たちを帰還させるため来島した船がアムチトカ島に到着目前で難破してしまい、ロシア人たちは絶望したが、光太夫たちが主導して難破した船の木材や流木を活用して船を作り、ロシア人とともに島を脱出してようやくカムチャツカ半島東海岸に上陸した。
その後、想像を絶する寒さの中、オホーツク、ヤクーツクを経由してシベリアを横断し、1789年に総督府のあるイルクーツクに行くことになる。ヤクーツクで帰国を願い出ても、らちがあかないことがわかったからだ。
ヤクーツクの役所から、光太夫の一行はイルクーツクまでの旅費ということで、かなりの金子(きんす)を渡され、厳寒期の2か月に及ぶイルクーツクへの旅に出ることを決めた時の光太夫の話――少し長くなるが引用してみる。
「いいか、みんな性根を据えて、俺の言うことを聞けよ。こんどは、人に葬式を出して貰うなどと、あまいことは考えるな。死んだ奴は、雪の上か凍土の上に棄てて行く以外仕方ねえ。むごいようだが、他にすべはねえ。人のことなど構っててみろ、自分の方が死んでしまう。いいか、お互いに葬式は出しっこなしにする。病気になろうが、凍傷になろうが、みとりっこもなしにする。」(P123)
光太夫はさらに続ける。
「たとえ、生命が救(たす)かっても、鼻が欠けたり、足が一本なくなっていたりしては、伊勢へは帰れめえ。――いいか、みんな、自分のものは、自分で守れ。自分の鼻も、自分の耳も、自分の手も、自分の足も、みんな自分で守れ。自分の生命も、自分で守るんだ。十三日の出発までに、まだ幸い十日許りある。その間に自分の生命を守る準備をするんだ。きょうからみんな手分けして、長くこの土地に住んで居るロシア人や、土着のヤクート人たちから、寒さからどう身を守るか、万一凍傷になったらどうすればいいか、吹雪の中におっぽり出されたら、自分の橇が迷子になったら、馬が倒れたら、そんな時、どうしたらいいか、そうしたことをみんな聞いてくるんだ。それから、みんな揃って、皮衣や手袋や帽子を買いに出掛ける。ひとりで出掛けて、いい加減なものを買って来るんじゃねえぞ。買物にはみんな揃って出掛けるんだ。いいな。」(P124)
光太夫の言い方が烈しかったので、みな機先を制せられ文句を言う者はなかった。光太夫は仲間の気持ちを引き締めるためにこのようなことを言ったのだが、そのおかげで皆はこの厳寒の地で生きていくための実際に役に立つ様々な知識や知恵を身につけることができたのである。
イルクーツクでは日本に興味を抱いていた博物学者キリル・ラックスマンと出会い、彼のアドバイスで「帰国願い」を総督府に出すが、一向に音沙汰がない。
ある日、役所からの呼び出しがあり、喜んだのも束の間、帰国のことは思いとどまって、イルクーツクで仕官するか、商人になれとの沙汰であった。いずれにしても相当な優遇措置をするという提案であった。しかし、光太夫はその提案を断り、改めて帰国を願い出た。光太夫は帰国を諦めるわけにはいかなかった。
何の回答もないまま、このままではらちがあかないとみたラックスマンは、イルクーツクから6千キロ離れたロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに向かことを決め、光太夫一行はラックスマンに随行して1791年6月に出発した。
そしてラックスマンらの尽力により、女帝エカテリーナ(この本ではエカチェリーナ)2世に謁見することができ、光太夫らの長年の漂泊生活に同情したエカテリーナは帰国を許可し、オホーツクで帰国のための船を建造してくれ、光太夫らは漂流から約9年半後の1792(寛政4)年に根室に到着した。約4万キロに及ぶ地球一周に匹敵する旅であった。
この本の扉には大黒屋光太夫一行の行程が載っているが、いま眺めても茫然とするほどの距離である。
光太夫を含め神昌丸で出航した17名のうち、1名はアムチトカ島漂着前に船内で死亡、11名はアムチトカ島やロシア国内で死亡、ロシア人の寡婦と知り合った新蔵と、凍傷で片脚を失った庄蔵の2名はロシア正教に改宗してイルクーツクに残ることにした。帰国できたのは光太夫、磯吉、小市の3名だけであった。しかし、壊血病に罹った小市もついに力尽き、伊勢に戻ることなく根室で亡くなってしまう。
キリル・ラックスマンの息子のアダム・ラックスマンを使節団長とした一行と光太夫と磯吉の乗ったエカテリーナ号は、根室から箱館に向かい、松前藩からの出迎えを受け、450名もの大行列で松前まで行くことになる。
アダムら使節団一行と光太夫と磯吉は、松前藩から丁重に迎えられているが、そうした日本側の態度は恐ろしく儀礼的であり、形式張っており、その反面、勝手な行動は許さないという厳しさに、光太夫は鎖国という国是の桎梏を感じざるを得ず、アダムら使節団一行は歓迎されざる客であることを感じていた。
それは、ロシアから帰国した自分たち二人も同じだということを思わざるを得なかったのである。結局、使節団は、幕府から「長崎入港許可証」をもらっただけで帰国することになる。
光太夫は述懐する――
「氷雪のアムチトカ島よりも、ニジネカムチャツクよりも、オホーツクよりも、もっと生きにくいところへ自分は帰ってきたと思った。帰るべからざるところへ不覚にも帰ってしまったのである。この夜道の暗さも、この星の輝きも、この夜空の色も、この蛙や虫の鳴き声も、もはや自分のものではない。確かに曾(かつ)ては自分のものであったが、今はもう自分のものではない。前を歩いて行く四人の役人が時折交している短い言葉さえも、確かに懐かしい母国の言葉ではあったが、それさえももう自分のものではない。自分は自分を決して理解しないものにいま囲まれている。そんな気持だった。自分はこの国に生きるためには決して見てはならないものを見て来てしまったのである。アンガラ川を、ネワ川を、アムチトカ島の氷雪を、オホーツクの吹雪を、キリル・ラックスマンを、その書斎を、教会を、教会の鐘を、見晴るかす原始林を、あの豪華な王宮を、宝石で飾られた美しく気高い女帝を、――なべて決して見てはならぬものを見て来てしまったのである。」(P371)
作者がこの作品で描こうとしたのは、単なる漂流記ではなく、鎖国という国是と、それをなんとかこじ開けようとするロシアの経済的利益を求めた思惑が交錯し、大黒屋光太夫はそれに挟まれ身動きが取れず、伊勢へ帰ることすらもできなかったという現実である。実際二人は幕府の御目付役に、長年にわたるロシア放浪中に見聞したことについて尋問もされた。
光太夫は磯吉といっしょに、番町の薬草植場内にあたえられた住居で、ある種、飼い殺しの余生を送らなければならなかった。
言葉の習得はもとより、異国の文化や風俗、宗教や政治に触れた自分たちは、鎖国時代の日本にとっては「歓迎されざる帰国者」であったのである。
以上が、この『おろしや国酔夢譚』に描かれた光太夫の心情や帰国後の状況であるが、この小説が書かれた当時は、光太夫らが故郷に一時帰ることができたことや比較的自由に江戸で生活していたことは、まだわかっていなかった。そのため光太夫らは帰国後、幽閉同然に扱われたように書かれている。
作者の井上靖は後年、関係者から帰国後の光太夫の資料を提供されたが、結局作品を書き直すことはなかった。その理由を推測するに、この作品が歴史書ではなく、あくまで史実を元にした歴史小説であったからではないか。一つの文学作品としての完成度の高さがそれを許さなかったともいえる。史実とは違っているという指摘は、この作品には無用であったろう。
江戸に居住させられたのは、いつ来航するかわからないロシア使節団への備えの一環であったともいわれている。
とはいえ、大黒屋光太夫や磯吉が異国で過ごした苦難の日々を酔夢のように感じ、故国で過ごす現実の日々に違和感をもったままであったのは、ありえないことではないのである。