「私」は存在しているのか
最近、様々な物を見るにつけ聞くにつけ、そして喋るにつけ、思う。
私というものは存在しているのだろうか。と。
バックボーンもなく、学歴も普通極まりなく、どころか紆余曲折の果てに専攻と呼べるものもなく、
クリエイターでもなく、かといって最高のプレイヤーでもない。オタク気質とも呼べない。
校正という仕事は「自我」を出したら終わりである。
もちろん、仕事内容に合わせた知識は必要であるが、校正というのは究極的には誤字脱字の発見であり、汎用性は極めて高い上に、資格がなくたって出来る。
出来上がった印刷物に残された校正者の自我は大抵が誤字脱字誤植誤謬ダミーママ…………等々である。プラス評価など普段はされない。されるのは、いざ退職するとなった時に引き止められる場合である。必要な人間なら最初から言え。
仕事にも自我は要らず、日常生活でも自我を持たない、持っていないほう、だと思う。
抑圧されてきたと言えばそう。
女は地元で就職してさっさと地元で結婚すれば良い、それが親の筋書きであった。たとえ県下の進学校に行こうが地元国立でいいでしょ、高専ならそれこそ高専卒で親は気分良く地元に残せたはずだった。
残念だったな!!!!
まあ親の誤算と言えるのは、将来的に介護奴隷にしたいくせに「勉強しろ」と普通の親並みに言っていたことだろうか。
勉強をさせずに家事手伝いを寝る間もないほどさせていれば、私は勉強の出来ない、何の選択肢もない大人になっていたろう。それが親の本来の筋書きであったろうに。
さて、解放された今はというと、……あまり変わらない。
時々、親の筋書き通りの人生であればもう少しバックボーンというものがあったのだろうか、などと考えてしまう。
いや、御免蒙るんですけど。
「結局、何者にもなれない人間」という言葉はよく目にする。
私の場合、それ以下かもしれない。
ただ生きているだけの人間ですらない何か。
その人たちは良いのだ。何者かになりたいと常に願っているのだから。
願いが人道に背くのであればもちろん問題であるのだが。
私は分からない。
願っているのかいないのかすら。
「存在しないも同然のモノ」
それが私のバックボーンであるのかもしれない。
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