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女性として生きることとは
あれから一年。
あっという間だった。
怒涛のように毎日が流れていく。
癌の宣告を受けてからもう2度目の冬を迎えている。
大きなことは特に変わっていないが、ずっと覚悟していた悲しい出来事がやってきた。
お正月明けに愛犬の1匹が美しい川の向こう側へ渡った。
不思議な感覚だった。
お坊さんにお経を唱えてもらっている最中に、
衰弱していたはずの愛犬が若返り、ピョンピョンと跳ねながら川の向こう側へ渡り楽しそうに走っている姿が見えた。
あぁ、身体も楽になって無事にお空に帰れたんだとちょっと安心すらした。
よかったね、もう大丈夫なんだね、
そんな風に愛犬の無邪気な姿が脳裏に浮かんで寂しさの中でホッとした気持ちもあった。
その日の夕方。
年末年始と日に日に辛くなって行く自分の腰と足の痛み。
年末に初めて、新薬を投与した。
抗がん剤とは違うと聞いていたが、
新薬という名の、結局は抗がん剤の一種だった。
投与する前、初めてPET検査をして、
それからも体調が少し悪くなったように感じている。
痛みがだんだん痺れに変わり、大丈夫かな?と不安になった為、主治医にも連絡して確認した。
その新薬は私の遺伝子にピッタリ合ったと聞いて、いつか最悪の時に最後の手段でやってみようと考えていた。
できるだけ何もやりたくなかったけれど、痛みがある以上、何かをしなくてはならないと感じ出した為、この方法を選んだ。
初めは、これで痛みもなくなり楽になるってウキウキすらしていた。大事を取って、仕事も全て終えた12月25日のクリスマスから入院し、投与。
気軽に考えていた。
楽観的に考えていた。
年末から、寝ても覚めても激痛が走り
挙げ句の果てには、両足に力が入らない。
副作用の一種にもあった、ギラン・バレー症候群のような症状だった。
焦った。
歩けなくなるのではないか?
でも年末。
病院も先生方もお正月もあるしと、遠慮してしまった。数日様子をみようと考え、5日が経った。
もう痛みを抑えられないほどの激痛だった。
鎮痛剤も効かない。
亡くなった愛犬の葬儀も済ませて、悲しむ暇もなく、その日の夕方、病院に救急外来で行くことになった。その日の担当医の先生が、血栓の疑いがあるからすぐに来てくださいと。
おそらく新薬の影響ではないかと思っている。
結果、その疑いはなんとかギリギリの数値で晴れ、帰宅はできたものの、激痛の日々。
鎮痛剤を変えても全く効果がない。
主治医にやっと会えてまた薬を変えてもらうも
全く効かず、日に日に我慢できないほどの激痛に変わった。
痛みがあると本当に何もできない。
普段は大抵のことに我慢ができるタイプの私でも
耐えられない痛みだった。
この痛みに強い私が耐えられないということは、一般的にはもう限界をはるかに超えていたのだろうと思う。
また救急外来で診察を受け、ついに薬は、医療用麻薬の域へ。
その薬でも痛みは治らず、ついに入院となった。
入院しながら主治医の元、薬の調整を行い、日常生活が送れるように色々な種類や飲む時間帯、回数をどうするかなどを試すための毎日を送った。
私が以前、手術をしていただいた時の病棟は、
末期がんの方はじめ、手術ができない方もたくさんいらっしゃった。
そこでの出会いや別れについては、また別の場所でお話しようと思う。
今回の病棟と前回までの病棟は、真っ直ぐな廊下で繋がっている。
向こう側から今回の病棟のある通路の奥を見ている時に何となく、明るい雰囲気を感じていた。
その理由はやっぱり当たっていた。
ここは新しい命の誕生もある病棟。
そう、産婦人科にかかっている方もたくさんいらっしゃる。
奥様の荷物を持ってご主人様も挨拶に来たり、家族が出入りをしている場所なのだ。
ウォーターサーバーの近くには、生まれたての産声をあげている赤ちゃんがたくさんいる。
幸せな香りがする。
たまにお母さんは赤ちゃんを乗せたカートを引いて廊下を散歩している。
旦那さんと幸せそうに話している姿はとても美しい。
でも、この病棟だって全員が同じではない。
私のように、子宮、卵巣、卵管の全てを取り除いた女性もいる。
私は過去にこの病院で、赤ちゃんの死産の手術を受けている。
私は結婚していた時代があった。
赤ちゃんが生まれるかもしれないという幸せを知った瞬間があった。
でもそれはたった数週間の思い出。
お腹の中でほぼ心肺停止状態だった。
様子をみようとしばらくお腹の中にいた子供は
残念ながら私の元に来ることはなかった。
でもいつかまた、タイミングがあればその子に会えるのではないかと思っていたが、今世の私のプログラムにはその課題は残されないまま、女性として大切な身体の部分は亡くなってしまった。
私は仕事が好きだ。
舞台が好き。
子供たちのところへ演奏しに行って、音楽を心から感じてくれている笑顔が好き。
笑ってもらえることが大好き。
でも一人の女性として、恋愛だってする。
離婚した後の恋愛も散々で、心が傷つく恋愛ばかりを選んでは、笑いの話のネタにしていたが
ある時、ある人に言われた。
『芸人じゃないんだから、そんなネタみたいな恋ばかりしなくていいですよ。』
あれから10年以上が経ち、今芸人をしている。
ソプラノ歌手としての音楽家とお笑い芸人。
でもお笑い芸人として5年が経った今、私は芸人には向いていないなとはっきりわかる。
あのまま、身体がそのまま女性としてあっても
相手がいなくては赤ちゃんは生まれない。
でも心のどこかで、縁があればまだ赤ちゃんは生めるかもという気持ちがゼロだったわけではない。
正直言うと、周りの人たちがお子さんの話で盛り上がっていたりすると何とも言えない複雑な気持ちにもなる。
女性として欠落しているような気になってしまうから。
特別、赤ちゃんがどうしても欲しかったわけでもないし、赤ちゃんがほしくなかったわけでもない。
ただただ、タラレバの話なんだろうけど、
『女性として生きる』とは、いったいどういうことなのだろうか。
私は仲のいい友人にでも、向こうから話してくるまで赤ちゃんの話は持ち出さない。
夫婦にも色々な形があるし、赤ちゃんの話はとてもとてもデリケートな話だと思っているから。
婚礼の司会者としても長年仕事をしていた私は、何にも考えずにヘラヘラと昭和の新郎上司が、新婦に対して、
『できるだけ早く赤ちゃんを生んでもらって』
というよくある主賓の挨拶に、本当に品がないなと思う。デリカシーがないと思う。
はっきり言ってうんざりするほど、その言葉を聞いてきた。
女性は赤ちゃんを生む道具ではない。
生みたくても生めない人もいる。
それは子種のない男性側の責任ということもある。
でも大抵は女性側が子供はまだか?と聞かれる。
男だ、女だと言うのはナンセンスな時代。
そんなことは百も承知だ。
ただ、身体の構造上、男女は切っても切り離せない現実。
私は今世、赤ちゃんを生むことはもうできない。
それでも、生きると死ぬという、この病院の中でまじまじと見せられる人生のプログラムをこれからどう受け止めて過ごしていくのか、
女性としての身体ではなくなっても、どう女性として生きたいのを、自分の課題として強く問われているようでならない。
女性として生きるって、一体何なんだろうか。