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【海外出産奮闘記#3】ボロボロの「乳首と肩こり」に疲労困憊…。~気遣い母のお産扱いとドタバタ第一子出産編~

大学卒業後、まともに就職活動もせず、ふと見つけた広告に応募し採用され、現代美術ギャラリーで楽しく働く私に向かって、ある日母はこう言放ちました。「あんたはきっと“いきおくれ”て、30過ぎで猫と一緒に1人暮らしするんでしょうね」と……。

しかし、人生には時に天変地異の如き出来事が降り掛かります。25歳で出会った彼と、次の日からおつきあいをスタート。半年後に妊娠、入籍する事に!

おめでたを経て怒涛の渡米から、夫とギクシャクのマタニティライフをお届けした前回。「誰かのお母さん」になりつつある不安に駆られるも、夫婦手を取り合い歩みだしたのでした。 今回は「ドタバタ第一子出産編」をお届けします。

■新婚生活はたった1ヶ月で終了…そして母と夫との「3人暮らし」がスタート!

娘の初産に前後1ヶ月を、と父に了承を取り、母が張り切って単身アメリカへやってきたのは、私たちの渡米1ヶ月後のことでした。

つまり、私たちが2人きりの新婚生活を送ったのは、わずか1ヶ月というわけです。

私たちが住む事になったのは、大学院の学生寮でした。家族世帯用の寮なので、いわゆる2DKや3DKなどの間取りもあります。ですが私たちは子どものいない夫婦世帯ですので、割り当てられたのは“スタジオ”という、広い1ルーム。

仕切りすら無いその部屋で、しばらくの間、母と夫との3人暮らしがスタートしたのです。

母が来る当日になっても、私は束の間の新婚生活を内心こっそり名残惜しんでいました。わたしはまだこの時、“のんき過ぎる自分”を自覚していなかったのです。


■なかなか来ない陣痛、「母と私の間の隔たり」

初産にはよくあることですが、多分に漏れず私も、予定日を過ぎてもしばらく弱い陣痛が続きました。

当たり前ですが初めての妊娠です。本格的な陣痛がなかなか来ない事は、それまで健康な妊婦だった私には、取り立てて大きな問題とは思えません。のんびりと「いつか陣痛は来るだろう、赤ちゃんはちゃんと出てくるだろう」と構えていました。

ところが母は、日本にいる父にメールで相談したり、「早く赤ちゃんに会いたい、何の為にここにいるのか分からない」と呟いたり。

一緒に暮らしていても、かつては“ひとつ”の存在だった娘の私と母の間には、いつの間にか深い谷がそびえていました。

ハッキリと認識してはいませんでしたが、その事実は一抹の寂しさとして、私の胸を鈍く刺しました。母の顔を、まともに見られなくなりました。

そしてそのうち、「どうして赤ちゃんは出てこないの?」そんな風に私は自分を責め始めました。もちろん、母にそんな意図はさらさら無い事は分かっています。

“娘からの卒業”、そんな言葉が胸をよぎりました。

■2週間を過ぎた予定日…、ようやく赤ちゃん誕生!

結局予定日から2週間を過ぎてしまったので、陣痛促進剤で人工的に陣痛を起こす事になりました。

陣痛促進剤によって引き起こされる陣痛は、びっくりするくらい激痛でした。普通の陣痛が1、2、3と段々と痛みが増すのに比べて、陣痛促進剤は1からいきなり10に飛びます。っと言えば、痛さが想像出来ますでしょうか。

促進剤を使用したとはいえ、お産は順調に進み、赤ちゃんは元気に生まれてきてくれました。眩しそうに目をつぶる赤ちゃんを見て、ナースが照明を落としてくれました。

辺りが薄暗くなった途端、パチリと目を開けてキョロキョロと辺りを見回す赤ちゃん。わたしの初めての赤ちゃん。娘です。この世界初心者の彼女を胸に抱き、私は長い長い妊婦生活を終えた安心感で、心からホっとしたのをよく憶えています。

時は10月の終わり、ボストンの樹々は美しく黄金に染まる季節でした。

アパートの窓から臨む美しい紅葉と、チャールズ川。

■「新生児黄疸」で入院!

「アジア人にはよくあることだけど」という前置きで新生児黄疸の診断を受け、赤ちゃんはNICU(新生児集中治療室)にしばらくいることになりました。「そうなんだ」とあっさり承諾したと思っていても、身体は正直です。突然びっくりするほど大量の悪露が出たり、涙が溢れたりと、私は精神的に不安定になりました。

アメリカは医療費が高いためか、少しよくなるとすぐに家に帰されます。赤ちゃんは紫外線を身体に当てる機械とともに、私たちのアパートへ帰ってきました。

しばらくは授乳、オムツ替え、そして毎回ベッドへ寝かすたびに紫外線の機械を身体に当てる生活が続きました。目に光が当たらないように、服の中に仕込むような形です。

紫外線に分解された黄色い色素、ビリルビンは、赤ちゃんのうんちとして、だんだんと外に出てくるのです。黄色いウンチを確認するのが、しばらく私の熱心な趣味のようになりました。

■「初めての母乳」に四苦八苦…、疲れた私を癒やしてくれたのは母だった

母乳はパンパンにふくれるほど生産されていたものの、あげるほうも飲むほうも初心者です。乳首は傷つき、流血し、赤ちゃんがくわえようとして“あーん”と開ける口が、グルグル回りながら待ち構える歯車のように思えました。高速で回転するその歯車に乳首を差し入れるタイミングを外すと、メチャクチャに傷つくという仕組みです。

乳首を怪我した事がありますか?なかなか経験できないことだとは思いますが。想像以上に痛いものなんですよ。

この授乳という初めての経験に疲労困憊し、私の身体はボロボロでした。夜中の授乳後も泣き止まない赤ちゃんを、時々母が変わって抱っこしてくれました。母はいつも赤ちゃんを見る時、くしゃくしゃの笑顔になります。

赤ちゃんが泣き止まなくても、なかなか寝なくても、笑顔であやしてくれる母の姿に、私の心は慰められました。

ある日、気付くと授乳疲れで私の肩はガチガチでした。母はそれに気付き、肩を揉んでくれました。子どもの頃から何度も揉んであげた母が、今は娘の私の肩を揉んでいる。それは一生忘れられない母の優しさです。

■そしてついに始まる「赤ちゃんとの暮らし」

産後1ヶ月が過ぎる頃、父が母を迎えにきました。父に会った母の嬉しそうな姿を見て、私も嬉しくなりました。ですが嬉しかった反面、それまで生活の半分を母に負っていた私は、これから始まる本当の赤ちゃんとの暮らしを思い、不安が胸をよぎりました。これから自分たちだけでやっていけるのか、全然自信が無かったのです。

しかし、不安ながらも、やっていくしかありません。

紅葉が散り、ボストンの樹々が丸裸になる前に、母は父と共に、笑顔で帰国していきました。そして夫も大学院修了に向けてラストスパートが始まります。

★今回の教訓★
(1)「お産扱いは母の真心」と感謝すべし。
(2)自分が母になったら「娘時代」は終わりを告げることを覚悟すべし。
(3)赤ちゃんの口が乳首にきちんと「ラッチ・オン」すべし!さもないと乳首は傷つきます…!

次回は、「赤ちゃんとの暮らし、極寒のボストン編」をお届けします。


*ItMamaに2016年掲載された連載です。現在、編集部側の都合で非公開になっていますので、加筆、修正したものをこちらにアップします。

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