【ネタバレ】悪魔とは突飛な存在であるか?魔法少女まどか☆マギカ新編『叛逆の物語』今更感あるレビュー
「それでも、私はあなたが幸せになれる世界を望むから.....」
劇場版魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語
エピローグにて、暁美ほむらの言葉
『劇場版魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語』は2013年10月に公開されたアニメーション映画作品であり、公開から2020年2月現在で約6年半の歳月が流れています。
今更この記事を出す理由としては、単に自分の初見が2016年と遅めだったこと、今から書く内容は2020年に見返して気付いた内容であること、また、既にたくさんある解釈を照らし合わせて自分の解釈は少し違うところがあり、その差異をなるべく新鮮なうちに残しておきたいという気持ちが多分にあるため、記事に起そうと考えております。よろしくお願いします。
全体的に、「キャラの発言の裏を取り、筋を見えるようにする」ことが主な趣旨になります。
※筆者は劇場版前後編(アニメ放送版含む)・新編のみ視聴済みで、ちょうど今放送している『マギアレコード』など公式外伝・スピンオフなどは全くの未試聴・未読です。ご容赦願います。
-まえがき-
(注:便宜上、アニメ放送版を「前後編」と記載し、対して、叛逆の物語を「新編」と記載します。)
考察には前提条件が必要だと思いますので、まずは自分の頭の中で考えている前提条件について整理をします。
キャラクターが現実の人物を象徴するような形で顕現する作品を観る上で一つ重要なことは、登場人物がなぜ泣き、なぜ怒るのかを理解しようと努めることだと思っております。作品の作り手は我々視聴者と同じ人間であり、また人間であるならば、一見似た考えであっても、差異が生じることは当然であるからです。作品を鑑賞する意義の一つは、この世のどこかに存在する他の人間が、何を考え、どういった価値基準で動いているのかを知れること。とりわけ「泣き笑い、怒り喜ぶ」ことは最も感情の振れ幅が大きく、その人間が本質的に好むこと、嫌悪することを分かりやすく知る指標となります。
まどか☆マギカ作品中のキュゥべえの言葉を借りるならば、「一人の人間が生み出す感情エネルギーは、その個体が誕生し、成長するまでに要したエネルギーを凌駕する」。感情=エネルギー、とすんなり変換できるのはあくまで作中の設定ですが、「感情」の持つ力は大きいということは、誰もが感覚的にすんなり理解できるのではないでしょうか。
感情には発生の起源があり、それは個々人によって様々です。「なぜ泣くのか、なぜ怒るのか」を理解しようとすることは、その人の感情はどこから来ているのだろう?その人は何が嫌いで、何が好きなのだろう?それは、観測者である自分とどれほど違うものだろう?ということを解き明かし、そのキャラクター、ひいては作り手の考えに触れるきっかけとなるのです。(もちろん、本記事がその全てを内包できるわけでは到底ありませんが、その片鱗に少しでも迫れていればと思います)
作品の話題に入りましょう。単刀直入に言って、『叛逆の物語』(新編)は暁美ほむらが主人公であり、彼女が最もクローズアップされた作品であると考えています。前後編の彼女は、「まどかに守られるでなく、まどかを守りたい」の願い一つで、幾度も平行世界の見滝原をループします。
メタな視点で言えば、2011年にこの作品が放映されてから2020年の現在に至るまで、我々は様々なタイムリープもの・スターシステムの作品を鑑賞してきており、もはや見慣れた世界観に成り果てているかもしれません。それでも忘れてはならないのは、平行世界を何度もループすることは、キャラクターに対して、以下の点で大きな負担があるということです。
・同じ日常を何度も繰り返し、繰り返す度に記憶が塗り替えられていく
・誰にも共有できない記憶を保持し続けることで、孤独を深めていく
・人の死に関して、時に神経質になり、時に無頓着になる
・上記のような自分に自己嫌悪を起こし、それを誰にも理解されない
・(さらに、暁美ほむらは中学生である)
前後編において、暁美ほむらはこのような苦しみと、これに関連するいくつもの苦しみを越え、まどかが願いを成就するまでの道のりを成し遂げました。
その果てに彼女に残ったものは何だったのか。彼女は納得の末にこの結果を受け入れたのか。その解釈を委ねる終わり方となるのが前後編であり、彼女自身の受け入れ方を描いていくのが新編だと思うのです。彼女の心情の変遷を解き解していきたい。当たり前のことですが、私は彼女自身ではなく、誤った代弁や推察にしても可能性を狭めすぎている節があるかもしれません。その際はお手数をかけますが、ご指摘いただければ本当に嬉しいです。
本記事の目的は、私がこの作品を鑑賞するにあたって見えたポイントを可視化し、そこから文脈を類推していくことにあります。より客観的で誰が見ても分かりやすいあらすじは既に随所にありますので、そちらも紹介しておきます。適宜ご覧ください。
〇出来事のみを記載し、個々人の考察という手垢のないまとめとしては、wikipediaの記事が最も綺麗だと思います。
〇それから、こちらのwikiのネタバレ台詞集も復習には便利です。
もちろんアニメ本編が最も情報量が多く、表情から風景、音楽や声優さんの演技、間の取り方など、文字のみで感じ取れない部分も多々あります。各種配信サイトや、販売されている円盤などから是非。
それでは、前後編・新編を交えて、気になったシーンから考察を展開していく形で、話を進めていきます。
1 - 暁美ほむらの最初の質問
1.1 - 「貴女は自分の人生が、貴いと思う?」
劇場版前編の冒頭にあたるシーンです。前の平行世界のループから時間遡行し、いつものように見滝原中学へ転校した暁美ほむらは、保健室を案内してもらうという名目で鹿目まどかを連れ出し、この質問を投げかけます。
「鹿目まどか。貴女は自分の人生が、貴いと思う?家族や友達を、大切にしてる?」
時間遡行と世界の書き換えを通じて、このシーンは劇中で3度繰り返されます。その度に二人の立ち位置と、質問の内容は異なりますが…
この質問とそれ以降の発言をするに至った最たる原因は、『ワルプルギスの夜』と戦い意識を失っていく数ループ前の鹿目まどかが、暁美ほむらに放った言葉にあります。
「キュゥべえに騙される前のバカな私を、助けてあげてくれないかな?」
「私、魔女にはなりたくない。嫌なことも、悲しいこともあったけど、守りたいものだって、たくさん、この世界にはあったから」
鹿目まどかはこの上なく優しい、慈愛の心を持つ人物です。しかし、彼女の慈愛の心も、ちゃんと見つめれば彼女自身のエゴイズムに過ぎないことは事実であり、彼女の芯の強さは「気付かない」ことにもあるのです。とはいえ、前後編でしっかり、「自分も大事にされている。同じように私には大事な人がいる。だから助けたい。行かなければならない」という、親も納得させられるような整理ができたのは、流石としか言いようがありません。
暁美ほむらは歴史をやり直すことで鹿目まどかの願いを叶えることを約束します。そもそも、暁美ほむらがここまで尽くせるのは、「彼女(まどか)に守られる私じゃなくて、彼女を守る私になりたい」という契約の願いや、それを持つに至った、1周目の優しいまどかとの記憶にあり、そんな暁美ほむらの記憶は周回していくごとに薄れて行ったり、逆に強く積層していく過程を繰り返すのです。
重要なのは、鹿目まどかへの質問における回答の内容は、暁美ほむらにとって「自身の願いの内容の確認」にあたるということです。
鹿目まどかは、この質問を受け、(初対面のはずなのに、何かを知っているかのような素振りを見せる暁美ほむらに)戸惑いながらもこう答えます。
「え…えっと…わ、私は…。大切…だよ。家族も、友達のみんなも。大好きで、とっても大事な人達だよ」
「本当だよ。嘘なわけないよ」
ここで、暁美ほむらにとっての「確認」は完了し、以前までのループの結末も考慮したうえで、彼女はこう解釈します。「鹿目まどかの本心にとって重要なのは、今の生活を守り、誰も悲しませないことである」。そうして、以下の言葉を返すに至るのです。
「そう。もしそれが本当なら、今とは違う自分になろうだなんて、絶対に思わないことね」
「さもなければ、全てを失うことになる」
「貴女は、鹿目まどかのままでいればいい。今までどおり、これからも」
劇場版前後編の物語は、この質問をしたループでの世界が舞台であり、暁美ほむらの行動基準の全てはこのやり取りに集約されています。そしてこの暁美ほむらの思考プロセスは、劇場版新編における彼女の思考を解き解すうえで、非常に重要な指標となるのです。
人の行動は必ずしも一貫性を持つものではありません。当人にとって最も重要な願いの前でさえ、欲望(感情)と秩序(願い)が揺れ動くように、時々で欲望を選択してしまうこともあるのです。しかし多くの場合、人の目を惹く人物というのは、欲望よりも秩序に勝つ回数が多いか、欲望と秩序が一体化しているような人間だと思うのです。
つまりは、暁美ほむらにとっての欲望と秩序は「鹿目まどかの本心を叶えること」にあり、時々欲望は秩序と乖離して、「彼女を支配したい」という側面を見せることがある、ということです。しかし鹿目まどかと同様、暁美ほむらも秩序(願い)を大切にする人間であると、私は考えています。
ただし、それは新編のエピローグに至るまでの葛藤の部分であり、後半はかなり、欲望と秩序が一体化しているように見受けられます。
2 - 暁美ほむらが確かに持つ人間性
2.1 - 「今まで自分が、いったいどれだけの人の心を踏みにじってきたか」
「暁美ほむらはその願いのためならば、時には周囲の犠牲も厭わない」…という言葉にまとめてしまうと、若干の語弊があるように感じます。少しシーンが飛びますが、新編において巴マミとの銃撃戦前に、以下のような台詞があります。
「記憶ってやっかいなものね…1つ取り戻すと、次から次へとよけいな思い出がついてくる。ええ、思い出したわ、巴マミ。私はあの人が苦手だった。強がって、無理しすぎて、そのくせ誰よりも繊細な心の持ち主で。あの人の前で真実を暴くのは、いつだって残酷すぎて、辛かった」
「忘れたままでいたかったわ。今まで自分が、いったいどれだけの人の心を踏みにじってきたかなんて…」
願いと感情の選択を、何度彼女は迫られたのでしょう。それも魔法少女になってからは、鹿目まどかを魔女化から防ぎ『ワルプルギスの夜』を乗り越える他はないのですから、その目的を達成する過程は延々と続き、時折感情とは乖離する形で、半自動的に感情を切り捨てる選択を迫られるのです。
暁美ほむらはこのように巴マミの人間性を細かく分析していますが、それは、幾度のループの中で真相を打ち明けた際の巴マミが、とても苦しそうで見ていられなかったと、暁美ほむらが感じた証左でもあります。そして、それを自身の願いと引き換えに踏みにじってきた自分への嫌悪を募らせてもいるのです。だからこそ、ソウルジェムは濁り、後の魔女化へとつながったのでしょう。自分自身の他者への思いやりのなさなどを自覚し、自己嫌悪に変わっていく過程は、確かに彼女自身にもあるのです。
また、銃撃戦中には巴マミを銃撃する際にあえて急所を外す描写があります。他にも、魔女の結界の中に引き込んでしまった佐倉杏子に対し「巻き込んでしまってごめんなさい」と謝ることがあるなど、まさしく巴マミの言葉どおり、暁美ほむらには「私の身を案じてくれるだけの気持ちはある」ということです。
2.2 - 「寂しいのに、悲しいのに、その気持ちを誰にもわかってもらえない…」
もちろん、魔女の結界の張本人がベベであると断定し、ベベを傷つけることを厭わない描写は、巴マミに直接ではないにしろ危害を加える行為であり、敵対されても仕方のないことであり、人格や品性を疑う行為ではあります。特に、巴マミ自身に相談もなくいきなり武力行使に出る姿勢は、対人関係において誠実な姿勢であるとは言えないでしょう。
ここで思い出すべきなのは、暁美ほむらは劇場版前後編における時間遡行者であり、魔法少女たちへ説得を試みた経験もあるということです。しかし彼女の言葉を信じるならば、その結果は「誰も耳を貸さなかった」のであり、事が起きる前に説得が完了することは一度もなかった。ならば武力行使しかない。たとえ恨まれたとしても、先に手を打つことで今起きようとしている犠牲が防げるならば構わない。そう彼女は考えたのです。
暁美ほむらの前にはたびたび、「過ちを繰り返さない(犠牲を出さない)」ことと「目の前の人の現在の感情を重んじること」という天秤が現れ、そして彼女は多くの場合、犠牲を出さないことや、鹿目まどか自身を守ることを選ぶのです。
暁美ほむらはあくまで、「あなたは鹿目まどかに関わる人間だから、危害は加えないよ」という損得勘定だけで動く人物ではありません。上述の通り相手に対して申し訳ないと思う気持ちは十分持っており、しかしそれよりも「過ちを繰り返さない」ことが重要であると考えているのです。これはループによる独特の価値観であり、やり直しの存在しない我々の世界からその常識を理解するのは難しいかもしれません。
また彼女は、ループする以前の世界と、鹿目まどかによって再構築される前の世界の記憶を持った唯一の人物です。彼女しか知り得ないことがあり、そんな境遇を経た彼女でしか持ちえない思想や想いが、確かに彼女の中にはあるのです。そして、それを誰にも理解してもらえないということ、誰一人彼女の心情を受け入れることができない状況が続くのは、正気を保つには耐え難い。人間は、いつまでたっても顕現しないことを信じ続けられるほど強くはありません。
こうして彼女は、丘の上公園のシーンで、「困ったことがあれば相談してほしい。力になれないのは辛いよ」と訴える鹿目まどかに、たとえ話としてこう切り出すのです。
「……私ね、とても怖い夢を見たの」
「あなたが、もう二度と会えない程、遠いところへ行っちゃって」
「なのに世界中のだれもかもがそのことを忘れちゃって、私だけがまどかのことを覚えているたった一人の人間として取り残されて…」
「寂しいのに、悲しいのに、その気持ちを誰にもわかってもらえない…」
「そのうちまどかの思い出は、私が勝手に作り出した絵空事じゃないかって、自分自身さえ信じられなくなって…」
彼女はここで涙します。前後編において暁美ほむらは、鹿目まどかが円環の理へと旅立つことで、唯一もとの世界のことを知る人物となります。自分の想いは確かにここにあるのに、それを誰にも理解されるはずのない場所に一人放り出されて、その想いさえも「妄想かもしれない」と忘れて行ってしまう自分に、耐えがたい恐怖と嫌悪を感じています。そして、そんな彼女に誰かが寄り添う場面は、このシーンで鹿目まどかが抱きしめるまで、たったの一度でさえありはしなかったのです。
視聴者の心理としては、劇中描かれる暁美ほむらの行動に対して、「よりよい方法があるのでは」「誰も犠牲にしない結末をなぜ選ばないのか」という疑問が生まれるものです。そうして、それが原因で暁美ほむらを「願いに忠実すぎて周囲が見えない過激な人物」としてしまうことが度々起きます。確かに、一対一で彼女に向き合えば、自分に危害を加える可能性がある。得体が知れない。怖い。そうでしょう。しかし、忘れてはならないのは、我々の(おそらく)誰もが時間遡行など経験もしたことのない人間であり、その前提が正しければ、たとえ暁美ほむらの苦しみに準ずるものを経験したことがある、と考えているとしても、暁美ほむら自身の境遇をちゃんと理解できる人物など現実のどこにも存在しないということです。
「何も知らないくせに」という言葉は、創作の世界だけでなく現実の世界でも時折耳にします。例えば我々が暁美ほむらと同じ境遇にあったとして、我々は愚直に「誰も死なない世界を実現する」ことと「目の前で気付かぬままに犠牲になろうとしている仲間を救うこと」の両者を、いつだって選択できるのでしょうか。同じ境遇に立った時、徹頭徹尾正しい選択をすることなどそもそも困難で、ましてやある程度の人(私自身も含めて)は、足が竦んで動けないか、舞台から降りて諦めることになると、私は思うのです。
とはいえ、何を考えているか分からないうちに自分の大切なものを傷つける人物に対し、人間は「怖い」という感情を抱いて然るべきです。劇場版新編のキュゥべえのように、恐ろしく、とても扱えないものからは距離を取ろうとするのが普通です。そうでなければ身の危険があり、滅ぼされるかもしれないからです。
しかしそうして恐怖のうちに距離を取ってしまえば、互いの間に理解の可能性はなく、ただ離別を選ぶことしかできません。恐怖は未知から来るものです。だからこそ、「諦めず、相手を理解しようと"試みる"」ことはとても重要だと、私は思うのです。まあでも、それで死んだら意味がないのは確かなので、ほどほどに。
2.3 - 欲望と秩序の天秤
そろそろ作品の話に戻ります。そして、これだけでは暁美ほむらの行動理由を説明したことにはなりません。なぜならば、彼女には「願いよりも感情を優先し、多くの人を巻き込まない選択」をすることも可能だったからです。
「今日まで何度も繰り返して、傷つき苦しんできた全てが、まどかを思ってのことだった」
「だからこそ、今はもう痛みさえ愛おしい。私のソウルジェムを濁らせたのは、もはや呪いでさえなかった」
「これこそが人間の感情の極み。希望よりも熱く、絶望よりも深いモノ、『愛』よ。」
暁美ほむらが宇宙の概念を書き換えることができたのは、唯一鹿目まどかと記憶(まどかのリボン)で繋がっている暁美ほむらだからこそまどかの力を取り返す形で利用できた、というのが個人的には有力です。また、幾度のループや本人にしか知り得ない経験により積層した呪いの力によるところも大きいでしょう。
劇場版新編の後半にて、自身の行動原理を「愛」だと説明して見せた暁美ほむら。そして彼女は前述のとおり、人の痛みに共感できる気持ちを確かに備えている。そんな彼女が、悪魔に至るまでの過程で、「自分の願いはただのエゴにしか過ぎない。自分が諦めないことで、余計に傷つく人たちがいる」と考えなかったとは到底思えないのです。
暁美ほむらは幾度の平行世界を経ても、人を労わり思いやる気持ちをちゃんと持っているのに、なぜ自身が膝を折ることを選ばなかったのでしょうか。それは単純に、「鹿目まどかのため」と片付けるだけでは説明しきれないのです。
3. 死地に於いて戦うその理由
3.1 - (ここは、かつてあの子が守ろうとした場所なんだ)
1.1節でも記載した通り、暁美ほむらにとって最重要なのは「鹿目まどかが本心で何を願いとしているのか、何があの子の幸せなのか」という一点です。彼女はそれを深く理解しようと努めていますし、その探求のためならば自分の身を差し出せるほどの覚悟を持っています。だからこそ危なっかしく突っ走ってしまう節があるのは、事実です。
劇場版後編の終幕において、円環の理へと旅立つ前の鹿目まどかと、彼女を案じる暁美ほむらの会話があります。ここでも暁美ほむらは、「この選択が本当に鹿目まどかのためになるのか」ということを考え、「誰にも干渉できず、誰からも忘れ去られるなんて、本当に鹿目まどかが望んだことなのか」と、感情をぶつけます。
「これがまどかの望んだ結末だって言うの?こんな終わり方で、まどかは報われるの!?冗談じゃないわ!!」
「これじゃ、死ぬよりも…もっとひどい…ひどい…」
そこに鹿目まどかが現れて、「こうなった(円環の理となり、過去未来全てが見える)からこそ、ほむらちゃんが私のために尽くしてくれたかけがえのない友達だということが分かる」と、不幸なだけではないことを告げます。それでも暁美ほむらは、本当にそれでいいのかを問い続けます。
「だからって、あなたはこのまま、帰る場所もなくなって、大好きな人たちとも離れ離れになって、こんな場所に、一人ぼっちで永遠に取り残されるって言うの?」
「まどかは…それでもいいの?私はあなたを忘れちゃうのに?まどかのこと、もう二度と感じ取ることさえできなくなっちゃうのに!?」
鹿目まどかはこれに対し、「まだ忘れると決まったわけじゃない。奇跡を信じよう。そして、またいつか会えるから、ほんのちょっとのお別れだよ」と告げて、「みんなを迎えに行かないと」と去っていきます。暁美ほむらはその返答を得ても、まだ納得が行っていないかのように、鹿目まどかを引き止め続けて、最後は無理やり別れることになる。
ほかの魔法少女と対比して、この二人だけが子供をあやすようなやり取りとなっていますが、しかし、暁美ほむらがこれをすんなり受け入れる方がおかしいと思うのです。新編を初めて見たときの私の感想は、「あんな境遇にあった暁美ほむらなら、そりゃあこういう結末を選ぶよな」でした。
世界が再構築された後として描かれる劇場版後編のエピローグ(魔獣編)では、暁美ほむらは鹿目まどかの選択を、一度は納得を以て受け入れています。
劇場版後編から劇場版新編に至るまでの時間は「魔獣編」としてコミカライズされていますが、アニメーション作品として描かれるのは前後編と新編のみで、魔獣編の時間は「鹿目まどかのいない世界で、長い間戦い続けた暁美ほむらと残された魔法少女たち」という文脈しか持っていません。しかしパッと設定を見たところ、魔獣も相当に強力な存在であり、精神を強く持たないと敗れてしまう危険性があることから、張り詰めた戦いを長く続けていたことは間違いがなさそうです。そんな中で暁美ほむらは、ただ「鹿目まどかの守ろうとした世界ならば」と信じ続け、戦い続けるのです。
(悲しみと憎しみばかりを繰り返す、救いようのない世界だけれど)
(だとしてもここは、かつてあの子が守ろうとした場所なんだ)
(それを、覚えてる)
(決して、忘れたりしない)
(だから私は、戦い続ける)
この台詞(今はいない人物の遺志を継ぎ、世界を守り続ける想いを告げる)は色んな作品にありそうですね。個人的に覚えている範囲は、ニーアオートマタでのエミール…
どちらかというと暁美ほむらは、納得のいかないまま鹿目まどかと別れて、納得のいかないままでは到底戦えない魔獣の棲む世界へと放り出されて、「自分を納得させて戦うしかなかった」のではないかと思うのです。調べた限りの情報では、魔獣編の暁美ほむらはやはりそれなりに葛藤しているようですし、とにかく「手を止めて迷っていれば、自分と守りたい世界が敗れてしまう、だから今は鹿目まどかの選択を正しいと証明するため、信じるしかない」という、半ば強引に、戦地で生き残るために自分に言い聞かせたかのような心境であると思うのです。
そしてその想いは、新編における魔女の結界の中でも完全に滅んだわけではありません。
3.2 - 「こんな茶番劇、まどかの犠牲を、ムダにしているだけよ」
前後編の後に円環の理によって再構築された世界でも、それ以前と同様、魔法少女の魔女化のトリガーは、内省的な一人の世界の中での自問自答、自己嫌悪が極まった瞬間のように描写されています(設定上は『穢れ』が溜まっていくということですが、穢れの正体は募っていく悪意と見受けられるため、最終的には「自分自身に呪いを募らせる」と同義になります)。
新編の前半部である暁美ほむらの作り出した世界は、前後編と魔獣編の時間を休まることなく戦い続けた彼女にとって、いわば「休息」とも呼べるような、夢の時間であったのです。
暁美ほむらはようやく、自己の内省の世界である魔女の結界の夢の中で(インキュベーターの観測実験によって成り立ったものであるとはいえ)、自身の気持ちに折り合いをつける時間を作ることができた、ということです。まるで、折り合いのつかないまま自分を納得させ続けたその限界に至る前の、最後の自己防衛のように。
しかし暁美ほむらは、これが自分の作り出した世界だとは知らぬまま、こう考えるのです。
「みんなを巻き添えにして、こんなありえない世界に逃げ込んだ者がいる。魔獣と戦う使命に背を向けて。そんな弱さ、許されていいわけがない。魔法少女は、戦い続けなければならない。それが、奇跡を願った対価。そんな私たちだからこそ、あの子は身を挺して救おうとしてくれた。こんな茶番劇、まどかの犠牲を、ムダにしているだけよ。許せない…」
暁美ほむらが魔獣編の世界で戦いの中決意したことは、未だに彼女の中に生き続けています。鹿目まどかが願ったことならば、せめてそれを無下にしないよう行動し続けるしかない。そして、彼女の願いを無下にするような行動をする人物は、暁美ほむらにとって許し難いものなのです。それが自分自身だったという、あまりにも皮肉な道のりを辿ることになるのですが…
くるみ割りの魔女の使い魔として描かれる偽街の子供たちは、このシーンで「Gott ist tott(神は死んだ)」と言い放ちながら、暁美ほむらが縋る鹿目まどかの肖像を汚していきます。まどマギで描かれる魔女の世界というのは、本人が盲目的なまでに望んだ願いを、まるで愚かだと罵るかのように使い魔たちが現れ、絶望した魔女本人をさらに追い詰めるかのように描写されています。これは一見、使い魔という外的な存在が魔女の精神の堕落を招いているように見えますが、しかし使い魔も魔女本人の感情の表れだと思うのです。すなわち暁美ほむらの魔女の世界は、自身が縋ってきた鹿目まどかという存在の貴さを守りたい自分の気持ちと、本当に守るべき大切なものなのかと疑ってしまう自分の気持ち(=使い魔の行動)との間で引き裂かれるかのように描かれていると感じるのです。とても内省的で、とても心理的な描写だと思います。人はどうしたって、一貫性を保とうと自分を偽り、それに反駁する意見を捻じ伏せようとしますし、その両者ともが自分の心の中の疑問から生まれ、自ら内面を切り裂いてしまうことだってあるのですから。
4. 鹿目まどかの本当の願いに迫る
4.1 - 「それがあなたの、本当の気持ちなら、私、なんて馬鹿な間違いを」
1.2節で紹介したとおり、丘の上公園の場面で、暁美ほむらは鹿目まどかがいない世界で戦い続けることの苦痛を訴えます。鹿目まどかの姿が見えないまま、その幸せな姿を観測できないまま、ずっと一人で戦い続けた苦しみを涙ながらに訴えるのです。そして、円環の理としての記憶を持たない、ただ一人の純粋な人間として映る鹿目まどかは、こう答えるのです。
「でも大丈夫だよ。私だけが誰にも会えなくなるほど遠くへ一人で行っちゃうなんて、そんなことありっこないよ」
「だってわたしだよ? ほむらちゃんでさえ泣いちゃう辛い事、わたしが我慢できるわけないじゃない」
「誰とだってお別れなんかしたくない。もし他にどうしようもない時だったとしても、そんな勇気わたしにはないよ」
既に多くの考察で語りつくされていることですが、このシーンは明確に、暁美ほむらにとって「自身の願いの内容の確認」にあたる質問であり、それに対し鹿目まどかは「ほむらちゃんが泣いてしまうような孤独を選ぶ勇気なんか、私にはない」と答える。
つまりは、1.1節、劇場版前後編で答えた「家族や友達が大事」という質問の答えが鹿目まどかにとっての真実であり、円環の理として誰にも認知されず戦い続けることは鹿目まどかにとって大きな苦痛であることを、このシーンで再確認したのです。
かなり引いたところからこの場面を見れば、「円環の理を経験した記憶のある鹿目まどかがそう答えるならともかく、その記憶さえ持たない人間としての鹿目まどかの言葉を鵜呑みにするのは早計すぎないか」と言いたくもなるものです。ですが、ここまで述べた通り、暁美ほむらは誰もが経験したこともないような時間遡行を経て、願いの対象である鹿目まどかが今どうなっているのか確認もできないまま一人で戦い続けており、そんな中ようやく現れた生身の鹿目まどかの言葉を信じるのはある種当然のことでもあると思うのです。そして、鹿目まどかの「一人は耐えられない」という言葉も、嘘偽りや虚言ではなく、あくまで真実の一側面ではある。
そうして暁美ほむらは、自分の苦しみの自白の時よりも、ひときわ大きな涙を流してこう考えるのです。
「それがあなたの、本当の気持ちなら、私、なんて馬鹿な間違いを…」
「やっぱり、認めちゃいけなかったんだ。あのとき私は、どんな手を使ってでも、あなたを止めなきゃいけなかった……」
「あなたにはね、どれほどつらい事だとわかっていても、それを選択できてしまう勇気があるの」
「あなたが、あなたにしかできないことがあると知った時、あなたは、自分でも気づいていないほど優しすぎて強すぎる……」
少し場面が戻りますが、劇場版後編において鹿目まどかが円環の理として旅立つ前に、巴マミと佐倉杏子が鹿目まどかと話すシーンがあります。巴マミはそこで、「すべての魔法少女を救う願いが、どれだけ大変なものかわかっているか」を忠告し、それを受け入れた上で願うことを告げた鹿目まどかに対し、佐倉杏子は「本人が覚悟を決めたのなら仕方がない」として、最後は二人とも、鹿目まどかの選択の背中を押すのです。
これに対し暁美ほむらは、3.1節のように、未だ納得のいかない想いを訴え、最終的には強引にまどかと離れることになります。
巴マミ・佐倉杏子と暁美ほむらの心境の対比を見て、まるで暁美ほむらは鹿目まどかの母親のように、彼女の痛みや苦しみを直に受け止めているように思うのです。もちろん私は、巴マミ・佐倉杏子や、美樹さやかを含める他の魔法少女が暁美ほむらに対して冷血な他人であるとはこれっぽっちも思いませんし、むしろ本人の選択の背中を押すことは、現実世界においても「とても良い友人、とても良い肉親」として解釈されることが多く、実際その通りだと考えます。しかし、暁美ほむらはそのさらに奥の真実を見ようとするのです。「鹿目まどか自身が願った選択でさえ、本当に鹿目まどかを幸せにするのか」。そこまで考えることができるのは、もはや暁美ほむらにとって、鹿目まどかがあまりにも大きな存在であり、彼女のためを考える気持ちがあまりに誠実すぎることの証左です。大切な人への気持ちがとても重たい人物であることは否定できません。しかしそれは、彼女なりのやさしさであり、またそれを培う過程として、あまりに過酷な運命があったことは、やはり無視できないと思うのです。
そうして暁美ほむらは、鹿目まどかの「キュゥべえに騙される前の私を助けてほしい」という願いや、まどかが守ろうとした世界を守るために戦う決意をした時と同様、また決意を新たにするのです。
鹿目まどかの本当の幸せのために、彼女を人間の姿に戻すことを。
しかし登場人物の誰もが、本当にそれを実行するその時まで、暁美ほむらの内心に気付かないままです。それはきっとその想いが、損得勘定や正常な判断を時には無下にするほどのものであり、希望でも絶望でもなく、本人以外の誰にだって理解することがあまりに難しい、愛と呼ぶべき衝動だからです。
5 - なぜ、暁美ほむらは願いを成せたのか
5.1 - 「黙りなさい」
彼女の感情の整理の過程として、もう一つ飛ばせない場面があります。新編での世界が、自分自身による魔女の結界の中での出来事だと気付いたのちの、マユの塔での場面です。
巴マミの銃撃戦後に、美樹さやかは忠告します。「これってそんなに悪いことなの?誰とも争わず、みんなで力を合わせて生きていく。それを祈った心は、裁かれなきゃならないほど、罪深いものなの?」結局暁美ほむらは、自ら真相に迫ることで、傍目には愚かに見えるほど、幸せな夢を崩壊させてしまうのです。そこをインキュベーターが指摘します。
「真実なんて知りたくもないはずなのに、それでも追い求めずにはいられないなんて、つくづく人間の好奇心というものは、理不尽だね」
「まあ、君ならいずれはきっと、答えにたどり着くだろうとは思っていたよ、暁美ほむら」
インキュベーターの指摘通り、「暁美ほむらならば真実に辿り着く」のです。彼らは人間の衝動の根源や優先順位などの原理は一切理解していませんが、しかし暁美ほむらの、理不尽なまでに鹿目まどかに関する真実を追おうとする姿勢だけは的を得た分析をしていると思います。
暁美ほむらが真相に迫ろうとする意志はもはや病的なものです。暁美ほむらが作り出した魔女の結界の中は誰にとっても幸せな情景で、美樹さやかを含め誰も否定することのない世界であり、ここで永遠の時を過ごしていたって誰も責めないものだったのです。しかし、暁美ほむらは常に、なぜこんなことになっているのかを追い求め続けます。それはひとえに、誰が鹿目まどかの願いを踏みにじり無下にしているのかを知るため、そしてその原因を突き止め排除するためなのです。そしてそれは、暁美ほむら自身の安寧の世界よりも、彼女にとって優先順位の高いことです。こんな気持ち、後に彼女自身が語るように「愛である」という以外に説明のしようがありません。
ただ、どのみちこの茶番劇を続ける選択肢を取れば、結局はインキュベーターから何かしらの干渉を受け、日常が瓦解していたとは考えられます。結果論ですが。つまりは暁美ほむらは、鳥籠の中の安寧よりも、自ら掴み取る平穏を選んでいる、とも言えます。まぎれもなく主人公の姿勢ですね。かつて平行世界の中で彼女が鹿目まどかに放った、「ここで逃げたって誰も責めたりしないよ」という言葉とは逆を行っています。これは明らかに、暁美ほむら自身の成長だと言えます。
話をマユの塔の場面に戻します。インキュベーターは円環の理へと導かれ消滅する寸前のソウルジェムを、遮断フィールドによって外からの干渉を受けない形にし、逆に内側から外側への干渉を通すようにすることで、暁美ほむらに関連する人物である「円環の理」が何者であるかを究明しようと試みます。そして、あとは暁美ほむらが鹿目まどかに救済を願いさえすれば、円環の理を観測し干渉することが可能になる。すなわち、インキュベーターは鹿目まどかによって再構成される前の、魔法少女が魔女化する世界に戻すことができる。
それを見抜いた暁美ほむらは、「鹿目まどかの願いを無下にし、支配するつもりならば、許せない」と逆上し、インキュベーターを攻撃します。その方法は、魔女の性質と使い魔の能力を強化すること。すなわち、自らの呪いを募らせ、鹿目まどかの救済を頑なに受け入れないことで、鹿目まどかと、鹿目まどかが守った世界を、またも守ろうとするのです。
インキュベーターは繰り返し、暁美ほむらに問い続けます。
「なぜ怒るんだい?君にはもう関わりのない話だ。暁美ほむらの存在は完結した。君は過酷だった運命の果てに、待ち望んでいた存在と、再会の約束を果たす。これは、幸福なことなんだろう?」
「殻を破ることすら拒んで、卵の中で魔女として完成してしまったら…。君は“円環の理”に感知されることすらなく破滅する。もう誰も、君の魂を絶望から救えない。君は再び、鹿目まどかと巡り会うチャンスを永久に失うんだよ?」
人は心底理解することができない物事に関しては、怒りを通り越して呆れるものです。呆れて、冷酷な目線を向けて、対象を滅ぼすことだってできます。ですが、暁美ほむらは終始インキュベーターの言葉に怒りを露わにしています。それは魔女の呪いを募らせることでしかインキュベーターを止められなかった、というの他に、暁美ほむらにとってインキュベーターの言葉が、ある程度の図星を突いており、感情を増幅させなければその指摘に負けてしまうという恐怖を確かに認めているからこそ、彼女は怒るのだと思うのです。
では暁美ほむらは、インキュベーターの言葉の何に恐怖し、何を敵と見做しているのでしょうか。それは恐らく、インキュベーターが暁美ほむらの感情を誑かし、願いを挫折させようとする動きを見せていることに対して、恐怖を感じているのです。「ここで救済を拒んだら、鹿目まどかには二度と会えないぞ」。それは、「鹿目まどかの願いを守る」という決意をしている暁美ほむらにとっても、蠱惑的で、抗う勇気と力の必要な、身を裂かれるような提案なのです。だって彼女は本心で、「鹿目まどかの願いを守る」と「鹿目まどかと一緒にいたい」が共生しつつあるのですから。
1.1節で述べたように、暁美ほむらは確かに、自分の欲望(感情)と秩序(願い)を天秤にかけたとき、秩序を選び取ることができる人間です。しかしそれは決して、彼女にとって苦痛を伴わないものではありません。そこがインキュベーターと暁美ほむらの決定的な分水嶺なのです。
暁美ほむらは確かに人間であり、人の苦痛を避けたいという感情や、鹿目まどかとただ触れ合いたいという感情を持っていないわけではありません。彼女もまた、願いと秩序を引き裂かれようとする場面には強く抵抗し、苦痛を露わにするのです。それが、マユの塔の中でインキュベーターに激怒する場面です。これはとても人間的な場面だと思います。一度意思決定したことをまた迷わせるような言葉には、やはり強く抗わなければ勝てないのです。だからこそ、感情と願いの葛藤を持たないインキュベーターには、暁美ほむらの行動が理解できない。
暁美ほむらは感情なく救済を拒むのではありません。暁美ほむらは追いかけてくる感情に抗いながら、それを増長するインキュベーターの提案を塗り潰しながら、救済を拒むことを選択し続けるのです。それは自分の感情を否定する行為であり、自分の願いと鹿目まどかの願いにただ忠実である姿勢であり、だからこそ彼女は、マユの塔の中で呪いを募らせ、苦しみ続ける。
ご理解いただけるか分かりませんが、私はインキュベーターがマユの塔から逃れた後、暁美ほむらの内省を描く場面が途轍もなく好きです。この場面は劇場版前後編のオープニングである『ルミナス』の映像で描かれた、鹿目まどかと暁美ほむらが頬を寄せ合うシーンと同一の場所になります。鹿目まどかが椅子から急に立ち、重力に任せるまま落下していき、暁美ほむらの前から永久に失われます。それを止めることができなかった暁美ほむらを、眼鏡の暁美ほむらが佇んで睨んでおり、またその上からもう一人の暁美ほむらが拳を振り上げて、自分を何度も殴りつけ圧し潰す。これは、暁美ほむらの心理描写そのものだと考えられます。「輝きと後悔だけしか、もう思い出せない」。これは、鹿目まどかと共に過ごした日々の愛おしさと、それを選べなかった自分を悔いて恥じる気持ちだけしか、魔女となった彼女には残らなかったことを示しています。それは、「鹿目まどかの救済を拒むことで、鹿目まどかの願いを無駄にしない」ことを選択した暁美ほむらが、永遠に繰り返すことになる葛藤なのです。永久に失われることについて、暁美ほむらはずっと葛藤していますし、永久に失うことを選択する自分を、またもう一人の自分は「やめろ」と叫び続けている。彼女は、感情と願いの葛藤を経て、そのどちらかを、完全な納得のいかないまま選択し、また苦しむ過程を繰り返していく。これは、あまりに人間的な選択の方法です。それを描写したこの場面が、とても悲しくて、恐ろしくて、美しいと思うのです。
魔女となり救済を拒み続ける暁美ほむらの前には、人間としての願いである「一人の人間としてのまどか」を選択できなかった過去しか残っていません。暁美ほむらの内省的な世界の中で描かれる鹿目まどかは、かつて平行世界の中で無残にも死んでいったあの日のまどかと同義なのです。そんな鹿目まどかを救えなかった自分に銃を向けることで、自分への後悔と憎しみだけを募らせていた。そこへ、円環の理の鹿目まどかが、インキュベーターの干渉が及ばないようお膳立てをして、ようやく救済の手を差し伸べるのです。「何があっても、ほむらちゃんはほむらちゃんだよ。私は絶対に見捨てたりしない。だから、諦めないで!」
とはいえマユの塔での場面は、1.7節で述べた「鹿目まどかの本当の幸せのために、彼女を人間の姿に戻す」という願いを前にして、インキュベーターの干渉によってそもそも鹿目まどかが危機に晒されたことを発端とした、暁美ほむらの抵抗でしかありません。つまり、「円環の理を願った鹿目まどかを無下にするわけにはいかない」という思いで呪いを募らせ鹿目まどかを防衛しつつも、「鹿目まどかを人間の姿に戻す」という最終目標は、暁美ほむらの中に確かに生き続けています。今は、前者の防衛を成立させるため、自分の「鹿目まどかに会いたい」という気持ちを封殺し続けることに必死で、後者の願いが埋もれているだけです。もしかするとこの防衛でさえ、自分の気持ちの敗北によって叶わない可能性があるのですから。
5.2 - 「もう私は、ためらったりしない」
やがて暁美ほむらのジリ貧の状況は、他の魔法少女たちの干渉によって終わりを迎えはじめます。他の魔法少女たちは、魔女として自分を呪い続け、永久に救済されない暁美ほむらを救うべく動き出します。インキュベーターの干渉が成り立たない条件の上で、鹿目まどかの救済が及ぶよう、協力し合い、暁美ほむらも説得して、ついにはその目的を達成します。
鹿目まどかの説得の果てに、暁美ほむらは以下のように納得して、魔女化から解き放たれます。さながら劇場版後編で美樹さやかを救済した場面のように、また新編の前半で、ナイトメアとなった志築仁美を美樹さやかが救済した場面のように、鹿目まどかが救済の言葉をかけ、固く閉ざされた暁美ほむらの心を溶かしていく。
「ごめんなさい…私が、意気地無しだった…」
「もう一度あなたと会いたいって、その気持ちを裏切るくらいなら…そうだ、私はどんな罪だって背負える」
「どんな姿に成り果てたとしても、きっと平気だわ。あなたが側にいてくれさえすれば」
「うん、大丈夫。もう私は、ためらったりしない」
ここの言葉についてですが、マユの塔での暁美ほむらの心情から、少しばかりの接続が必要になります。
暁美ほむらはインキュベーターに鹿目まどかを指一本触れさせないため、暁美ほむら自身が鹿目まどかに指一本触れられず、永久に彷徨うことを選択します。後の鹿目まどかに言わせれば、「独りぼっちになる」ことを選択し続けるのです。それを、鹿目まどかは「独りぼっちにならないでって、言ったじゃない」と窘めます。
魔女となった暁美ほむらは、この説得に至るまで、鹿目まどかによる救済を拒み続けます。魔法少女たちの活躍により、もうインキュベーターからの干渉もなく鹿目まどかと会える方法が分かっているのに、救済を拒み続けるのです。ここが、私にとってはとても不可解でした。なぜなら、丘の上公園の鹿目まどかの言葉を受け、ハナから鹿目まどかを円環の理から引き剥がす気でいるなら、ここは暁美ほむらにとってようやく訪れた「この時」となるはずなのです。さもなければ演技だということになりますが、しかしここで演技をするメリットが暁美ほむらにとってあるとは思えませんし、特に、「そうだ、私が意気地なしだった」なんて気付いたように呟くことは、演技ではないことの証左だと思うのです。
それはきっと、魔女となった暁美ほむらの中で、このような葛藤があったのではないでしょうか。
「もしここで鹿目まどかに出会ってしまったら、自分は鹿目まどかを円環の理から引きはがし、自分のものにしてしまうだろう。それは自分にとって傷つけたくない、鹿目まどかと自分の大切な友人たち(美樹さやか、巴マミ、佐倉杏子)の想いを無下にする選択だ。それを選んでしまって、果たしていいのか。鹿目まどかに出会って、抑えられない感情と共にみんなを巻き込んでしまうくらいなら、このまま永劫の苦しみに囚われているほうが良いのではないか」。
インキュベーターからの干渉を拒むほかに、暁美ほむらには鹿目まどかと出会う前に、最後にこのような葛藤があったと思うのです。そうであれば、この場面で初めて達観したかのような台詞にも説明がつく。繰り返し、この部分を見返してみます。
「ごめんなさい…私が、意気地無しだった…」
→自分と鹿目まどかの真の願いを叶えるその前に、みんなを傷つけたくないという感情が上回ってしまった。真の願いの方が重要だという選択ができなかった。
「もう一度あなたと会いたいって、その気持ちを裏切るくらいなら…そうだ、私はどんな罪だって背負える」
→心を閉ざして誰とも会わず、孤独に魔女として鹿目まどかに出会わない選択を選ぶくらいなら、「鹿目まどかに会いたい」という欲望(感情)の方に正直でいたい。そして、真の願いを叶えることにも忠実でいたい。
「どんな姿に成り果てたとしても、きっと平気だわ。あなたが側にいてくれさえすれば」
→どんなに悪魔的な行動を取るとしても、鹿目まどかが傍にいて、その真の願いが叶うのであれば、誰に恨まれようと平気だ。
「うん、大丈夫。もう私は、ためらったりしない」
暁美ほむらは、鹿目まどかの母親にも似た存在となる決意をしました。誰かに石を投げられようと、誰にも理解されなかろうと、想うはあなた一人、鹿目まどかの幸せのためならすべてを投げ出す覚悟で、この場面でとうとう決心するのです。誰も傷つけたくないという自分の感情に別れを告げ、鹿目まどかを助けることを、もうためらいはしないと。
また、そこに全くの欲望がないわけではありません。「独りぼっちにならないで」に対し、鹿目まどかと二人でいられるという暁美ほむら自身の願いと、鹿目まどかの「人間でありたい」という真の願いの両方を達成できる方法として、悪魔になり鹿目まどかを無理やり円環の理から引きはがすことを選択するのです。
こんな暁美ほむらの選択を、「ただの欲望であり、エゴだ」と切り捨てることかって、視聴者にはできます。「鹿目まどかのためを思うあまり、自分自身や鹿目まどかにとって大切な友人を犠牲にするだなんて、在り得ない」と思うことかって、自由です。ただ、暁美ほむらは全くの冷血で感情を持たないわけではなく、時には誰かの犠牲に葛藤し、ずっとずっと一人で、ただ一人を思い戦い続け、その果ての選択が「これしかない」ということだったのは、忘れてはならないと思うのです。口を挟むなとは言いませんし、むしろ挟むべきだと思いますが、しかし彼女がただ狂った愛情を振りまく理解しがたい人間で、現実の誰にだって共感し得ない突飛な思考を持った人物だとは、私には思えないのです。
6. エピローグと、椅子からの転落
6.1 - 暁美ほむらの功罪
円環の理から鹿目まどかを引き剥がしたことで、世界は再構築されました。円環の理の魔法少女を浄化する作用だけは残ったまま、その意志の源であった鹿目まどかを引き剥がすという、かなり無茶をした状態の世界が持続されていきます。再構築された世界の美樹さやかが暁美ほむらに対し、「この世界を壊すつもりなの」と迫るのは、確かに今の円環の理が、鹿目まどかの意志という素体を持たない極めて脆いシステムだということを突いているのかもしれません。これはまあ、設定にはない推測にすぎませんが…
そんな世界になったとしても、暁美ほむらは自分の選択を悔いるつもりはありません。鹿目まどかが円環の理として働くことで、彼女が本当に願った人間としての生き方を達成できないくらいなら、世界が壊れてしまっても構わないと暁美ほむらは考えているわけです。
さて、ここからは正直に申し上げて解釈の割れる部分です。個人的にはpixiv百科事典の『悪魔ほむら』の記事に全て投げたいくらい。というか全部お願いして、気になる点を掻い摘んで話します。客観的に色々な解釈を見たい方は、是非下記の項目へどうぞ。
エピローグにおいて、暁美ほむらにとって衝撃的な場面が訪れます。見滝原中学に転入し、暁美ほむらの案内を受ける鹿目まどかが、ひとりでに円環の理の役割を思い出そうとする場面です。そこを、暁美ほむらは必死で取り押さえ、「あなたは間違いなく、本当のあなたのままよ」と言い聞かせる。
暁美ほむらは間違いなく、この場面を動揺をもって迎えています。そうして、鹿目まどかと二人で人間として幸せに過ごせるはずが、鹿目まどかが円環の理に戻ってしまう危険性と、それを止めなければならない自身が、敵対構造に陥る可能性に気付いてしまうのです。
そもそもですが、暁美ほむらは「鹿目まどかが人間として生活することが、彼女にとって一番幸せだ」と定義づけていますが、これの根拠は4.1節の丘の上公園での鹿目まどかの発言によります。しかしこれは、円環の理の使命を果たしていた頃の記憶がなく、また暁美ほむらの結界の中で干渉されている可能性が否めないことから、「円環の理となる願いを果たした後の鹿目まどかの意見ではない」ことは、見落としてはならない重要な事項です。
物事を実体験を以て経験した上での発言と、その経験がない状態で話す言葉は、同じ人物であってもまったくの別物である可能性は十分あるのです。それを無理やり、「円環の理になる前の鹿目まどかが言っているのだから、間違いはない」と断定し、過去の状態へと強引に引き戻すことを「鹿目まどかにとっての幸福」と定義付けるのは、かなり危険な思想でもあります。
とはいえ、正解なんて分からないわけですし、暁美ほむらは果てしない行動力と実現力を兼ね備えているキャラクターであることは間違いなく、その結果が必ずしも不幸であるとは限らないのです。
結果として、美樹さやか・百江なぎさは人間としての蘇生を果たしていますし、魔法少女は魔女になる前に消滅するシステムは残っているため、魔獣編の世界よりも多少良くなった面もあります。
一方で、暁美ほむらはすべての魔法少女と敵対する結果となりましたが、彼女自身は意外と未練を捨てきれていない節もあります。前述のpixiv百科事典の記事のとおりですが、巴マミ・佐倉杏子・美樹さやかに干渉する場面は、使い魔の行動の方が暁美ほむらの心情を表しているという解釈があり、私も概ねそれに賛成です。鹿目まどかにリボンを返し、涙するような人物が、間違いなく大切に思っていた魔法少女たちと綺麗さっぱり決別できているとは思いにくいのです。
結局、暁美ほむらが世界に干渉したことで、もとよりよくなった部分も、悪くなった部分もあるのです。同様に、鹿目まどかが干渉した世界もハッピーエンドのように描かれていますが、宇宙全体のエネルギー問題の解決策はないままで、暁美ほむらの欲望も取り残されたままであることから、全てが丸く収まったわけではありません。どちらの行動も、結局は世界にとっていい結果と、悪い結果の両方をもたらす可能性があるのです。
その総量がどの程度かによって第三者からの評価が生じるのは避けられませんが、ここで言いたいのは、結局は彼女たちはエゴで動いていたのであり、それに相応な罪は背負うべきであり、そこで勝ち取った恵みを堪能する権利もまた、両者にあるというだけです。それが、現実です。
6.2 - エンドロールで終わるのか?
エンドロール後の最終パートは、「流石に自殺ではないだろう」という解釈が多々見受けられました。今は、私もそう思っています。
暁美ほむらが自殺するとすれば、「自分は鹿目まどかのためには必要がないと確信した」のであれば納得ができます。しかしこの場面に至るまで強い意志をもって「鹿目まどかの幸せは、人間としての生活だ」と確信して行動した暁美ほむらが、円環の理へと戻りかけた鹿目まどかや、「欲望よりも秩序が貴い」という鹿目まどかの発言だけで、「人間としての生活がまどかにとって幸せ、というのは間違っていた」という確信に至るとは思えません。まだ暁美ほむらは、鹿目まどかと敵対してでも彼女が幸せになるよう尽くすと思うのです。
ならば、ラストシーンの、半分に切り分けられた丘の上公園からの転落は何なのか。
私個人の解釈にすぎませんが、これは「暁美ほむらの心象風景」か、「鹿目まどかの心象風景」の二つに一つだと思っています。
このシーンで流れる劇伴は、結界の中の世界でしか流れない、劇中歌『まだダメよ』のアレンジであり、現実には起こっていない夢の描写の可能性があります。
そして、暁美ほむらが座っている椅子は、5.1節にて記載した、劇場版前後編のOP『ルミナス』の映像で流れる、鹿目まどか・暁美ほむらが座っている椅子と類似のものであり、鹿目まどかの側だけがない、というものになっています。
解釈のひとつは、「暁美ほむらの心象風景の中で、未だに鹿目まどかを手に入れられないまま、心に穴は開いたまま、静かに笑っている」
もう一つは、「鹿目まどかの心象風景の中で、まるで暁美ほむらが魔女となる過程で経験した"鹿目まどかを救えなかった自分への責め立て"を、鹿目まどかも繰り返している」というものです。
後者だとすれば鹿目まどかにも自己嫌悪が芽生える形となりますので、かなり後味が悪く、今後の展開が恐ろしいものになります。とはいえ、鹿目まどかが暁美ほむらという人間を理解できる確率が少しだけ上がるのではないかと思います。逆に前者だとすれば、暁美ほむらは寂しさを懐きながらも、鹿目まどかを手に入れられる日を確信して笑っている、という可能性があります。結界の中で藻掻いていたころと、果たしてどちらが狂っているのか最早わからない、でも幸せそうではある、といった具合。
暁美ほむらは彼女自身の答えを求め、それを知る権利を確かに獲得しました。しかし今なお、彼女が望んだ未来が訪れているかはまだはっきりと分からないのです。
はじめ私は、「暁美ほむらは再構築後の世界で鹿目まどかに投げた質問の返答(秩序が大事)から、鹿目まどかの真の願いを誤解していたことを自覚し、また自分の存在がもはや鹿目まどかの障壁でしかないことを知ったため、舞台から飛び降りて消え去った」のかと思っていました。しかし、暁美ほむらがあの一場面だけで「人間としてのまどかの方が幸せ」という意見を覆すわけがないよな、という考えに変わり、自ら死ぬことは筋としては在り得ないだろう、と至りました。暁美ほむらが信じる「人間としてのまどかの方が幸せ」はかなり客観性に欠ける信じ込みですし、それを根拠にひた走ってきた彼女は、あの一幕程度で引き下がるとは思い難いです。それよりも、鹿目まどかとの敵対を選び、彼女の本当の幸せは人間であることだ、と主張し続ける気がします。たとえ鹿目まどか本人が否定したとしても、並大抵の言葉では引き下がらないでしょう。ここまで成し遂げた彼女ならば。
-あとがき なぜ泣くのか、なぜ怒るのか-
私個人の感情を率直に述べるならば、暁美ほむらは「とんでもなくマブい」と言わざるを得ません。向こう見ずなところがあり、誰からの手も拒むような危ういところがありますが、それを天秤にかけても、自分の意思に忠実で、どんな障壁があろうとも疑念の払拭のためにたった一つの方法を選び続ける強さは貴いし、尊敬に値すると思います。彼女の説いた「愛」には確実に弱点があり、あまりに脆く儚いものですが、人間はそんなもんだよなあ、とつくづく実感させられるのです。そして、彼女が魅了された鹿目まどかもまた、底のない強い意志を持つ人物です。あまり共感されないのですが、私は前後編の結末で、鹿目まどかのあまりの優しさと最後の願いの選択に対し結構本気で泣きました。「一体この状況をどう覆すのだろう」というところで、ただのご都合主義な方法ではなく、暁美ほむらが辿った運命と決断を貴いと認めた上で、自らもその渦中に永劫飛び込んでいくことを決意したのです。それはあまりにも強すぎて、優しすぎる。これからの苦痛に対して向こう見ずで、それでも叶えたい意志に忠実で、そんな姿勢が途轍もなく美しかった。
ですが、危うい一面の部分は無視できないところです。とにかく二人とも石橋を叩く度合いが足りない。こうだと決めたことは突っ走るし、自分の行為は誰かのためになると信じ切っている節があります。それはやっぱり創作のキャラクターとして一貫していて素晴らしい点ではありますが、やはり現実の人間として近づけていくと、思い違いをただす前に事を起こしそうでヤバいな、というのが正常な判断だと思います。でもまあ、かっこいいので、やっぱり傍には置いておきたいとどちらといえば思います。
途中、「暁美ほむらは、鳥籠の中の安寧よりも、自ら掴み取る平穏を選んでいる」と述べました。彼女は、彼女自身の性質として、また彼女の最も知りたいことを知るためには、絶対に膝を折ることができなかったのでしょう。鳥籠の安寧の方が良い結末を迎えられたとしても、個人の納得という意味では、与えられた安寧を受け入れ続けるわけにはいかなかったのです。なぜなら未来は手にしない限り不確定で、どちらがより幸せかなど、実際にその場面を迎えなければ何一つ分からないからです。
彼女はあくまで、自分で道を切り開く人物です。それに対し、ほとんどすべての魔法少女が「一人で抱え込むな」と彼女を心配し続けました。そこからまとめれば、暁美ほむらは差し伸べられた手を全て跳ね除けた不孝者であると解釈せざるを得ません。日本で古くから伝わるお話は、「あんな愚か者にはならないようにしましょう」というオチで締められることが多く、そんな神話や物語の中に暁美ほむらが登場したとしたら、間違いなく「愚か者」の立場として、偽りなく「天界から堕落した悪魔(こちらは日本ルーツではないですが)」として描かれることになるでしょう。
ですが一つ言えるのは、悪魔はちゃんと人間なのです。生まれながらにして善人・悪人であるという性善説・性悪説の二元論に当てはめることはできません。「同じ人間とは思えない」としても「同じ人間である」ことを認めざるを得ません。暁美ほむらは冷血で人の心を持たない化け物などではなく、痛みや苦しみを分かち合える一人の人間でした。これだけは理解を拒もうとしてもどうしようもないのです。彼女が代弁した通り、人間の持つ「愛」とは、希望や絶望、善悪や損得を鑑みない狂った衝動であり、それは評価されるよう利用することもできれば、エゴイズムの極みであるかのようにふるまい他者を傷つけることもできますし、また、我々の誰もが持ちえる可能性を持っています。
究極的なことをいえば、愛とはエゴの表れであり、エゴのない人間は人間足り得ない。人は時折誰かを傷つけ、誰かを害し、時には誰かを助け、誰かと共生することになる。多くの人にとって価値基準とは、「正しいか、正しくないか」ではなく、「気持ちいいか、気持ち悪いか」でしかないのです。だからといって、彼女の罪が消えてなくなるわけでは決してありませんが。
神も悪魔も、手放しに良い/悪いを決めつけることはできません。クローズアップすればするほど、信じられないことや、許せないことや、逆に親近感の湧くような行動が描写されています。そこは神話も、まどか☆マギカの世界も同じですね。
最後になりますが、冒頭にて、「なぜ泣くのか、なぜ怒るのか」を理解しようと試みることが重要である、と述べました。それは単純に、キャラクターと視聴者である自分自身との距離を縮めるために必要だと考えています(ここでいう「距離」とは、あくまで自分自身の方が一方的に近づいているだけで、相手から認知されるという意味では決してありません。夢がありませんが)。
距離を縮めることによって、我々はキャラクターが、架空の世界の存在ではなく、一人の人間として描かれていることを知覚できます。もしどれだけ切りつめてもそのキャラクターから共感足り得るパーツが出てこない時は、その時はキャラクターが人間としてでなく架空の存在として描かれているということですが、それでも同じ人間が描いているものなのですから、完全に人間ではないものを描くことは、相当意識的にやっていない限りはなかなかそんな例は見つからないでしょう(インキュベーターとか。でも彼らでさえ同情してしまう点はあるし)。つまりはそのキャラを知ろうとする過程で、どこかで共感できるパーツが見つかり、それがきっかけで、なぜそのキャラクターがそういった行動をしたのかが腑に落ちるところが出てくるのです。
距離を縮めることは、副作用として「視聴者自身がその考えに中てられて変容してしまう」というものがありますし、その過程で結構苦しむこともあります。魅力的に映るのに、自分の考えには全くそぐわない振る舞いを見て、自分の行動の意味でさえ疑ってしまうようなこともあります。しかし人は、他者から何かを吸収することでしか、異なる考えを受け入れる方法はないのです。もし他者の考えがどうしても受け入れられないとしても「こういう理由で受け入れられなかった」が残れば今度は相手にそれを必要性に応じて伝える選択肢が生まれますし、案外好きになれたら幸運です。
気持ち悪いもの、理解できないものを理解しようと努めることは、案外悪くなく、面白いと思うのです。心理的負荷が大きいのは否めませんが、やはり色々見て変わっていって、その上で自分の芯の考えがあるほうが面白いな、とは思います。
新編のホムリリィ(暁美ほむらの魔女)戦において美樹さやかが「夢っていうほど、悲しいものじゃないよ、これ」と述べていますが、これは円環の理に導かれて過去未来全ての魔法少女を救う役目を負って、誰にも認知されない境遇に追いやられたとしても、意外と悪くないもんだよ、と言っているのだと思うのです。また、悪魔ほむらも、「今日まで何度も繰り返して、傷つき苦しんできた全てが、まどかを思ってのことだった。だからこそ、今はもう痛みさえ愛おしい」と述べており、これは美樹さやかの台詞に通じるところがあると思うのです。どれだけ悲しく辛いことも、行き着いた先の結末が絶望であるとしても、何かを想いその繁栄と幸福を願う最後ならば、暁美ほむらのように、笑って終われるのではないか、なんて、希望的な観測までもが出てきます。恐ろしく利己的な考えですが、まあ、利己的であろうと他人行儀であろうと、結局どっちがより良いかという本質はそこにはないので、「愛」を妄信する考えも良い面はあるのかもしれません。
世の中、上手い話は「意外と良いもんではないよ」というものですし、全然良くないことに見える結末も「意外と悪くないものだよ」ということがあると思うのです。だからこそ、苦しみに立ち向かうのも、本当の願いのためならば、案外得られるものがあって悪くないな、と思います。
魔法少女まどか☆マギカは、前後編・新編を通して、全ての綺麗なモチーフの中に、たくさんの「気持ち悪い、受け入れがたい、怖い」を見せてくれました。ただの理想論ではない不条理が奇跡や希望となって降り注ぐ様が、人間を手放しに肯定しない様が、色んな解釈を与えてくれました。まさしく、神秘的な作品です。これからも、見るたびに感想が変わっていくのだと思います。
長大な記事に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。深く感謝申し上げます。7年遅れで、しかも他人の褌で考えを述べているだけの記事ですが、何か色々と抵触していればご指摘ください。
とりあえず現時点でまとめる感想としては納得が行ったので、また別の考えを巡らせることにします。