なるたけ前向きな、さようなら
東方Projectの二次創作詩集『境界渡り beyond boundaries』を頒布します。
詩集の表紙イラストはうずみび(@bankedfireXXX)先生です。厳しいスケジュールの中、みかづき星雅が体験した出来事を反映した、素晴らしいイラストを仕上げていただきました。絶えなく感謝です。
お別れの詩集、と題打ってXで告知を打ち出しましたが、「お別れ」というのは、この詩集の制作最終盤に出てきた語彙です。はじめは「負い目」とか、「隣の芝生」とか、「選べなかった未来」とか、「選ばれなかった側」とか、他に、もっと長いセンテンスで表現されていました。
ここ最近の詩作で特に意識していたのは、主張している内容がなるべく一つの見方に偏らないようにすることでした。
身も心も焦がすような憧憬・焦燥・決意。これらに満ちた言葉を紡ぐことは、精神のアクセルをベタ踏みし、まるで躁状態のようになってしまえば、可能な行為です。
しかし、おれが本当に求めているのは、躁状態のときにさらに背中を押して時速100kmを超えるような運転をするための力ではなく、いわゆる抑鬱状態、何をしようにも手につかなくて、どんなものも暗澹や不安を伴い、失望を拭うことがかなわない、そんな状況の中でも、もう一度立ち上がる気を起こさせるような表現でした。
ところが、一つの見方に偏ると、極端な状態を肯定してしまいます。躁状態でアクセルをベタ踏みすることも、抑鬱状態を脱さずにそこにとどまることを肯定するのも、おれは欲していなかった。ならば、一つの見方に偏ってはいけなかったのです。おれはエクストリームな音楽がとても好きですが、人間としての道を踏み外さずに、超常的で超越的な技巧や演出を降ろせるような人たちが、みかづき星雅の最も志すところです。そんな表現を、詩作においてどうやって行おう、ということを、よく考えていたように思います。
夢に向かうのは素晴らしいことだが、そのことで失うものについて、自覚的でなければならない。
休息はときに必要だが、それを続けることで得られないものについて、いつかは真っ向から向き合わなくてはならない。
立ち上がり、走り続けることは立派だが、その最中に通り過ぎたこと、見過ごしたこと、犠牲になったものは、必ず存在する。
ものごとはいつだって、全面的な肯定はできない。一時的にはそれが許されても、自己批判的で自己内省的な部分を取り払ってしまったら、それは依存だと思うのです。
そんな心持ちで毎日1作ずつくらいのペースで制作した詩たちですが、それらを詩集にまとめる、という作業を行うとき、詩作とは違う観点で、様々なことを考える必要がありました。
前回、詩集としての処女作『イノセンス・ロスト』を頒布しましたが、この詩集は、東方ProjectのいわゆるWin版と呼ばれる作品群にて登場したキャラクター総勢130名程度を基にした詩歌を、一冊にまとめる、という趣旨で制作した詩集でした。
一貫したコンセプトや、作品全体を覆う価値観のようなものは少しおざなりになっていて、作品同士の主張が乱雑であることを暗に許容したような詩集となっています。それは読書体験にノイズを与えるくらいのものになっていて、個人的に心残りでした。
こういったノイズをなるべく抑制して、読後感として、何か読む人にきっかけを与えられるような詩集にするには、どうすればいいか? を、今回の詩集ではずっと考えていたように思います。
制作過程としては、既に詩のストックは大量にあったので、詩を新たに書き起こすのではなく、既存のお気に入りの詩を選出する形を中心としよう、というのがまず方針としてありました。(並行して別の原稿もあったので、新規に書き起こすよりも元々あるものを使おう……となったのも理由)
200個くらいある詩のストックの中から、テーマを起承転結構成にして、「起」に該当する詩を20選、「承」にあたりそうな詩を30選……と選んでならべた制作過程もありました。
そしたら各々の詩が、まるで「自分は「起」じゃなくて、詳細にはこういうテーマを持っている!」と主張しだしたりして、その声に素直に従うと、選んだ詩たちが20個くらいのテーマに分散してしまって、詩集として収集がつかなくなる事態も起きました。
そんな感じで頭を抱えることが多い制作過程でしたが、この詩集のタイトルを『境界渡り』にすることは、ほぼ初期から決まっていました。これは詩集制作の少し前に書いた、『木屑混じりの白浪』と『夜と昼がみえる場所』の制作過程から着想を得ています。
この詩を書いていたのは、社会人になってからほぼずっとかかりきりだった大きな仕事(五年くらい)が、いよいよ終局に向かうというタイミングでした。後半の1年くらいはずっと忙しくて、遠方でずっと出張という名の赴任状態で仕事をしていたのに、その土地での観光だとかもロクにできず、ただひたすら、仕事と、詩や小説の制作と、依存対象だったビデオゲームと……を、していました。
おれは仕事が嫌いであり、好きでした。おれはもともと、何としてでも創作を人生の拠り所、第一の柱としたいという想いがあって、しかし生活の基盤を整えるために一般企業に就職する、という道を選んでいます。仕事なんて自分のしたいことの二の次以下で……という想いが最初はあったのですが、そんな感情から仕事に対する素行の悪さがちらちらと露見してしまって、しかも社会に適合しているとは到底思えないようなおれでした。ですが、会社の人たちはとても辛抱強く、優しくしてくれました。彼らが仕事に情熱や真剣さを持っていて、個々の考えを発信することを厭わない人間であることを知ると、彼らと一緒に情熱を注ぎたい、という想いが強くなっていくのがわかりました。
けれどおれは、創作を第一にしたかった。彼らのやっていることに情熱を注ぐと、創作のための時間やリソースが、どんどん少なく、短くなっていき、それについて考える密度も、得られた機会も、どんどん失っていく気配がしていました。なので、仕事の時間は彼らのために心血を注ぎ、しかしその時間が終われば、できる限り創作に打ち込む、という生活を、理想として続けてきました。
そのやり方は、境界線上を何度も行き来するような気持ちでした。
創作に対しても、仕事に対しても……もっと自分の全身全霊を使っていれば、自分の持てるものすべてを使っていれば、何か違う結果が齎せたのではないか?
そう思う気持ちを、何年も何年も説き伏せ、時に我慢の限界を迎えようとして、どちらかを辞めようとしてしまって……などということを繰り返してきました。
創作に進めば、仕事で得た情熱や尊敬の道を継続できなくなるだろう。
仕事に進めば、逆も然り。
そのどちらも選んで、どちらも選びきらず、境界線上で揺蕩っているような時間が、ずっと続いていました。
いいや、もっと言えば、仕事と創作だけでなく、様々な二項以上の対立が、生活のあちこちに転がっていました。友人関係と創作を天秤にかけたり、音楽制作とイラスト制作を天秤にかけたり、そのどちらも選ぶこともあれば、どちらかを捨てるしかないこともあった。
そういった思考と選択のたびに、どちらを選ぶことで、どちらが失われる。どちらも選ぶことで、しかし得られないものがある。ということを、まざまざと痛感させられてきたように思います。
そんな状況を変えられない中、時間と体力と可能性を削りに削った、何年がかりの大きな仕事がようやくひと段落を迎えようとしていました。
この詩を書いたときに居たのは、仕事終わりに一人で行った、海辺の砂浜でした。おれは内陸の生まれで、海が物珍しくてとても好きだったのですが、一年も海の近くの出張先で仕事をしてきたのに、全然行く時間を作れなくて、そのことが心残りで、出張終盤の三日間くらいずっと、仕事終わりに同じ浜辺に向かうことが続いていました。
浜辺にいるのは夏場の夕方だったので、必然的に、いわゆるマジック・アワーのような、夕暮れ時の光景を見ることが多く、やや昼の面影を残した空と海の色合いが、水平線の彼方から闇に染まっていく過程を、一時間余りかけてずっと眺めていました。
波はひごとに調子が違って、穏やかな日もあれば荒く波打っている日もある。砂浜はひごとに様子が違って、潮が満ちてろくに歩けない日もあれば波が引いて波打ち際にずっととどまっていられるような日もある。
しかしどんな日でも、空と海の色は一体になっていて、表面は反射光で輝き、大気と水中の境界が、いつだって存在していました。
そして、昼の景色が夜の景色へと変わり、その最中に存在する、橙とも紫ともつかない空と海の模様も、毎日、この浜辺に存在していました。
『境界』という言葉はこの浜辺にいたときから頭の中にあり、この言葉に関連する東方Projectのキャラクターといえば、八雲紫でした。
あらゆる境界を操り、あらゆる境界に住まう、作品世界を作った賢者の一人とされる妖怪。
彼女のことがこの浜辺を見ると思い出されてきました。
たとえ人間が常に意識していなくとも、この浜辺と浪、空と海、夜と昼は確かに存在している。おれが、その境目を渡るときに、思い悩もうが、思い切っていようが、あるいは何も考えずに見過ごしていようが、その境界は、いつだって存在している。
境界があるならば得るものと失うものがある。境界があるならば葛藤と後悔がある。そして、境界があるならば、得ようと失おうと、往生しようと悔いようと、必ず、彼女がいるように思えている自分がいました。
そうして『夜と昼がみえる場所』の詩を制作し、その翌日、浜辺に打ち上げられる浪と、それに運ばれて砂浜を埋める流木、枝、ごみの山々を見て、まるで、「なるはずだったもの、生きるはずだったもの」たちの死体が流されてきて、墓標ができあがってるみたいだ、と思って、『木屑混じりの白浪』の詩を制作しました。
「全面的な肯定をしない」「一つの見方に偏らない」という意味で、この2つの詩は、自分が現在理想としているものに近いものを書くことができました。
これら詩をプロトタイプとして、8月に開催されたコミックマーケット104にて、コピー本の詩集『境界渡り』を頒布します。このときから10月に詩集を出すことは決めていて、10月の詩集に向けた試作として、この詩集を制作しました。
この試作での反省点などを活かし、今回の詩集の制作に踏み切りました。しかし、前述のとおり、制作はさまざまな試行とこうじゃない感を繰り返して、いろいろと行き詰っていました。
そんな折、うずみび先生から表紙イラストのカラーラフが上がってきました。うずみび先生にはこれら制作背景をある程度共有していて、浜辺の夕景の写真をリファレンスとして送付し、可能であればこれを参考にイラストを描いていただければ、とお願いしていました。
カラーラフを拝見したとき、この詩集のコンセプトを、再び思い返すような気持ちになったことをはっきりと覚えています。
一年を過ごした異郷の地の浜辺、そこで書いた2つの詩と、書いたときの思考や感慨。
制作過程で色々思い悩んできたけれど、結局、この2つの詩と、そこに至るまでの諸々があって、この詩集を制作しようとしたことは疑いようがない。
イラストを拝見することで、それらを思い出したおれは、詩集のタイトルナンバーとなる詩『境界渡り』を、その日中に書き上げました。
この『境界渡り』の詩は『夜と昼がみえる場所』の明確なセルフオマージュですが、はっきりと違うのは、境界というものが存在する現実をただ描画したのが『夜と昼がみえる場所』であり、その境界に対して何をしていくのか、あるいは何をしてきたのか、という行動の表明のようなものが『境界渡り』となります。
この詩ができるまで、この詩集には「現実にそういう状況があるとして、それに対してどんな考えを持っていて、どんな心象風景を浮かべていて、つまりは何をするのか」という方向性が存在していませんでした。あるいは、うまく形にできていませんでした。
そもそもを言えば、詩を書くにあたって、そのような意見表明のようなものは不要なのかもしれません。詩はうたことばであって、言葉本来が持つ性質を、辞書に書かれるような、日常で多用されるような意味・文脈から解き放って、何かを表すものであり、そこに思想は必要とされないかもしれない。
けれどおれは、現実とは何であるか、を表現するために、詩というものを用いた。
その現実は、間違いなく自分たちの目の前にあるもので、そこに対して何かをするか、しないか、を否応なく選択させられる。もし、ただ現実を書くだけならば、「静観」「選ばない」というメッセージ性を帯びているように思いました。まるで、何も選ばない、という選択をしているかのように。
ただしそれは、おれの中で納得のいかないものでした。
静観するだけでいいのなら、惰性で続けてきた依存に苦しみ続けているおれに、何の答えや活路も見出すことができない。
選ばないことが答えなら、仕事と創作などの境界線上で、可能性の有無に苦しんできたおれに、もう何もしなくていい、苦しまなくていい、というインスタントな安寧を与えることになる。
そのどちらも、おれは飲むことができませんでした。
何かをしなくてはならない。何かをしていることを示さなくてはならない。
さもなくば、何年も井戸の中で一人苦しんできたおれに対して、希望なんてない、活路なんてない、いまの苦しみを、これからも受け入れよ、ということを示すほかに、なくなってしまう。
ならば、詩の中で、現実だけでなく、そこで何をするのか、という選択を、たくさん示してやろうと思いました。
そう思ったとたん、これまで書いてきた詩の中に、様々な現実と選択が、既にさまざま描写されていることに気づきました。
そこからは、詩を素早く選出することができました。
また、今回の詩集は音楽アルバムのような構成を意識しています。意味が一つに偏らず、主張が一つで一貫せず、多岐にわたっている。けれど、作品全体が何か大きな雰囲気で覆われていて、何度もその内容を見返して、そのたびに違うことを考えることができる。
そういった内容を目指しました。
最大のリファレンスは、今年5月にリリースされたBring Me The Horizonのアルバム『Post Human: NeX GEn』です。依存症に対するスタンスが、複数の楽曲で、複数の視座で示されていて、一度発起したと思ったらまた落ち込んで、自己否定を繰り返して、しかしまたそれらに負けないように立ち上がって……ということを繰り返すアルバム構成。
この詩集も、そういった配置を目指しました。振り返ってみれば、おれが詩作をしてきた日常は、ときに現実への嫌悪や自己嫌悪、何もできないことへの憤りだったり、しかし現実への好意や肯定、何かをしなければならないという決意だったり、そういうものがかわるがわる訪れて、様々な詩が出来ています。
なので、浮揚と沈殿を繰り返すようなこのアルバムの構成を模倣するのは、日常的に詩を書いてきて、浮揚と沈殿を繰り返してきたおれにとって、必然的な帰結だったと思います。
また、微細な日本語のリリックで悲哀と再起を図ろうとする姿勢という意味で、SOLITUDE A SLEEPLESS NIGHTSのEP『Beyond Causality』からも影響を受けました。特に、詩集のサブタイトル『beyond boundaries』は、このEPのタイトルをオマージュしています。このバンドには普段の詩作から多大な影響を受けていますが、詩集の一部にリスペクトの要素を入れられて満足しています。
今回の詩集に主張があるとすれば、お別れを選択すること、だと思います。
おれは長きにわたった依存対象との別れを選択しました。様々な理由があって離れられず、手を引いてしまえば二度と手に入らなくなることのおそろしさ、というものが常に付きまとっていました。それも、この詩集の八雲紫に言わせてみれば、「やがて贅沢な苦味になる」で、きっとそうなのだと信じています。
何かとの決別を選ぼうとする人にとって、この詩集の言葉たちが、前向きなきっかけになることを祈っています。
長くなりましたが、各地の同人イベントで本詩集を頒布します。
直近は、
2024年10月6日 インテックス大阪で開催される東方紅楼夢、
2024年10月26日 東京ビッグサイトで開催される博麗神社秋季例大祭
また、2024年12月のコミックマーケット105も、受かれば出店予定です。
詩のリクエスト企画も会場で行っていますので、ぜひお越しください。