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世界遺産・高野山を登ってきた。~町石道ハイク【後編】(上級者向け)

2021年、最後の投稿です。東海道の旅から読んでくださった方も、高野山が気になって読み始めてくださった方も、間違ってクリック・タッチしてしまった方も、来てくださりありがとうございます。

ちょうど、「高野山・後編(完結編)」で一年を締めくくろうと思います。みなさまにとって、次の一年も良い年になりますように…。

と、ここまで長い前置きになりましたが、どうぞ続きをご覧ください。

ぜえぜえ息を切らしながら、どうにかこうにか登ってきた。あまりにキツすぎる高野山。時々登山してしまったことを後悔しつつも登っていくと、唐突にその景色は現れた。

高野山・大門

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高野山の大門。登りついた先に、それはあった。

どーーーーん!!
まだ登山は続くんだろうと思っていたら、ゴールは突然に、だった。この朱塗りの門が現れたとき、言いようのない感動…はなく、言いようのない安堵感で、顔がふにゃふにゃとなった。

観光客の人たちは、突然山の中から現れた(疲労困憊できっと顔色も悪かっただろう)女にぎょっとした顔をしている人もいたが、すまん、決して山姥などではない。山姥っぽい顔をしていたかもしれないけど。

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この迫力はなかなか味わえない

近くに寄ってみると、この大迫力。京都でもしばしばこのような規模の大門は見かけるが、達成感に満ちている今はなんだか感じ方も少し違う。

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重要文化財か、さすがです。

で、関東出身の友人が、私が国宝や重文を見ても「ふーん」の反応だったことに驚いていたが、関西に住んでいるとあちこちに国宝・重文があるので、反応が薄くなってしまうのだ。麻痺しているんだろう。

なにせ、小中学校のときの同級生は寺の息子だったけど、本堂が国宝の寺に住んでいたぞ。(この寺の息子と仲良くなっておけばよかった、と割と真剣に思っていたが、あまり話したことがなかったことを思い出した/笑)

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あ!
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うん!

阿吽の像。こういった門にはいつもいらっしゃる。
若いカップルの観光客はスルーしていたが、割と年配の方は「ほー」と言いながら写真をバシャバシャ撮っていた。私も精神年齢が老けているとよく言われるので、「ほー」「立派なもんだー」と独り言を言いながら写真を撮った。

高野山の町並み

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ちょっと東海道みたいなん景色だけど、標高が高い分、空が近いように感じる。

大門から、金剛峯寺に向かって歩いていく。
大門に着いて少し気分的には元気にはなったが、体は正直だ。体もへろへろになっている。足は東海道を歩いていたお陰か、さほどの疲労感はないが、体全体が重くだるい。

実は、このハイキングの前一週間は疲労が溜まっていたように思う。体調不良というほどではないが、なんか疲れているなあ、という程度には感じていた。その蓄積疲労に高野山登山でさらに疲労が加わったことで、どうやら体が悲鳴を上げていたようだ。

歩きながら、早めに帰ったほうが良さそうだ、と計画を立て直した。

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高野山には金剛峯寺以外にもたくさんの寺がある。支院?というのだろうか。おそらくすべてが真言宗のお寺だろう。密教寺院は大きく、厳しく、でも品があって凛として美しい、というのが私の勝手なイメージだ。

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しばらく歩くと、土産物街に出てきた。観光客も増えてきた。また、小僧さん?のような方も数名ではあるが見かけた。その表情を見ていると、なんだか普通の少年だなあ、となぜかホッとした。

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おや、町石の1番石!
こここそが、町石の始点、つまり本当の意味のゴールだった。ここにカメラを向けてパシャパシャ撮っているのは私ぐらいだ。観光客の人たちが怪訝そうな顔をしていたが、私の格好を見て、何かを察してくだされ(笑)

高野山壇上伽藍 中門~奥の院へ

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中門
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またも大きな門が現れた! ここは中門
こちらの方が人は多かった。大門は少し離れているからかもしれない。また、中門は寺院と隣接しているので訪れやすいというのもあるかもしれない。

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あ!
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うん!

こちらの阿吽の像はきらびやかだ。修復したんだろうな、この新しさは。創建当時の仏像って、このような感じなのかも。

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あ!
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うん!

そして、門の裏側に回ってみると、またも像が。

仏像って、厳しい表情をしていても、なんだか優しそうに見えるのは私だけだろうか。仏像を見てホッとする。

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相当しゃがんだ体制で、カメラを上に向けて撮ってます。

このスケール感、なんとか写真で伝えられないだろうか。頑張って体を少ししゃがんだり、カメラの角度を工夫したりしてみたんだけど…いかがでしょう。少し斜めになってしまってるなあ。

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この朱さはぜひ、生でご覧いただきたいです。

塔は、私が知らないだけかもしれないが、これほど大きな塔を見たことはない。東京の浅草寺も大きかったと記憶しているが、この壇上伽藍は土地そのものも広いので、より一層大きく感じられた。

青空に朱塗りは映える

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まるで御所のようなお堂

ものすごく広い敷地に、どーんと構えるお堂。本当に、こういう感じのお寺は全国的にも数少ないと思う。このスケール感を上手く伝えられないのが悔しい。

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大きな木があったので近づくと、この木は三鈷の松というらしい。松の葉は普通は2または5だが、これが3つに分かれているのが珍しい…ということなので、この松の周辺には松の葉を探す人がウロウロ…。ゾンビに見えるよ…と思ったのは内緒です。不謹慎でした、すみません(泣)

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広々としていて、中尊寺と似た雰囲気も感じる。

このまま、道路には出ずに寺の敷地を通って奥の院へ行こうとすると、紅葉したばかりの景色が広がっていた。

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愛染堂

このようにお堂はたくさんあるが、できるだけ撮影しました。

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不動堂
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不動堂はなんと国宝のようである。
そういえば例の同級生が「オレん家国宝!」と言ってドヤっていたが、実際は本堂が国宝だった、というのを思い出した。それでもすごいんですけどね、うん。そういうのは、大人になったらよく分かる。

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いい感じで紅葉していて、心が現れる気分だ。グラデーションに色づいた紅葉が美しい。

ああ、でも足はもうへろへろです。もう歩くのもしんどい。でも奥の院には行きたいので、なんとかがんばる。

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東塔

個人的には寺院(お堂)はこのように下からのアングルで撮るのが好みだ。というのも、屋根を支える柱を捉えることができるのと、そのダイナミックさがよく伝わるからだ。

もし、寺院に行く機会がありましたら、ぜひお試しください。

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しばし静寂な雰囲気を楽しむ。向こうのほうからは人がたくさん歩いているのが見え、声も聞こえてきたので、素早く写真を撮る。

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いい具合に紅葉している(2021年10月末)

少し曇っているのが残念ではあるが、赤と緑が綺麗だ。
ちょっとだけ、はとバスツアーで訪れた修善寺の雰囲気を思い出した。

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真言宗総本山・金剛峯寺

やっと金剛峯寺に着いた。高野山の都、とも言うべきだろうか。
実は金剛峯寺には来たことがあるが、とても良い静寂なお寺です。ぜひお越しください。ただ、今回は奥の院まで「歩く」ことが目的であるのと、足がもう限界に近づいていたので、金剛峯寺はまたの機会に訪れようと思う。

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さて、ここからは本格的に奥の院に向かう。城下町のような石垣が見えているが、こういう風景はここ高野山ではごく当たり前である。

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途中、様々な分院もあり、そのうちの一つ、ここは山階宮家の菩提所。
で、ここでひとつ。天皇家(皇室)は「神道」なんだけど、皇族の方々はしばしば出家して寺に入る。(門跡寺院)そう、神道であるけど仏教とも密な関係である、というのが日本ならではだなあと思う。

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苅萱堂。手前にいるのは「こうやくん」。

以前来たときは、宿坊に泊まったのでこのあたりもじっくり楽しんだ。この苅萱堂にも着て、ろうそくとお線香をあげた記憶がある。

余計な話だが、当時私は御朱印を集めるブームだったので、高野山でやたらと御朱印が溜まった。ただ、その分お金もかなり飛んでいくけど。いいんだ、私が死んだら棺に入れてもらうんだ…!

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奥の院の入口。まだまだここからかなり歩く。

奥の院に来ると、大勢の人がいた。(写真はあんまり人いないやん、と思われたでしょうが、人がいないタイミングを見計らったのと、みんな同じように撮っていたから、というのもあります)

奥の院までは私のように歩いてくる人もいれば、高野山内のバス、観光バス等、要するにバスという手段でここまで来る人もいる。

なお、金剛峯寺から奥の院入口までは十分に歩けます。でも、この入口から奥の院まで結構歩きます。なので、歩きに自信のない人は我慢せずバスでここまでお越しください。

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奥州・伊達家墓所

さて、奥の院までの道といえば、このように墓地が並んでいるのが見どころだ。しかも、ほとんどが大名家、という歴史ファンウハウハの道である。

で、先ほど上に書いたように、一応ここは寺領にあたるはずなのだが、この奥州伊達家の墓を見て分かるように、鳥居(=神道)である。ここがまた、おもしろいところだ。死後は神格化する、ということだろうか。日本文化って面白いね(と、日本人が言ってみる)。

墓なんて見て、なにが楽しいねん、と思う人もおられるだろうが、結構楽しいと思う。その墓の規模の大きさは現代の墓より大規模であったり、教科書で見て知っている人物(だけ)の墓もあったりするので、なかなか面白いものだ。通路に面しておらず、奥の方に行けばもっといろいろあるようだが、今回は通路に面したところ、かつ有名どころだけ撮影してみたので、ぜひご覧いただきたい。

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加賀・前田家墓所

加賀百万石の前田家である。やはり立派! ひときわ目を引く。

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曽我兄弟供養塔

時折、特定の人物の墓もある。おそらく分骨であったり、魂だけをこちらに移している、というものだと思われる。

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薩摩・島津家墓所

薩摩の島津家の墓所。母方先祖(鹿児島出身)が島津家にお世話になったらしく、シンパシーを感じているので、私も勝手にシンパシーを感じている。

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岡山・池田家墓所

比較的シンプルな池田家の墓所。もうちょっと大きいものを想像していたんだけど…。

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岡山津山・森家墓所

森家といえば織田信長の家臣の家系だっただろうか。津山かあ、そう遠くないし行ってみたいなあ。

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森忠政墓所

先ほどの津山藩の初代藩主・森忠政については別に墓がもうけられていた。特別な功績のある人物については、家の墓以外に個人の墓がある。

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企業の墓(供養所)もある。
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一例:江崎グリコの会社墓所

途中、企業の労働者の供養であろう墓もたくさんあった。それまでの大名家の墓とは少し趣が異なるのは、時代が違うのと、宗教的なものもあるだろう。

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さて、どんどん歩いて行く。
通常、墓の中を歩くのは不気味なものだが、ここはそんなことはない。私が霊感ナシというのもあるかもしれないが、奥の院までの道として、木々の中に包まれるように安心して歩くことができる。

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小田原・北条氏墓所

おそらくこの奥の道に北条家の墓所があるものと思われる。うむ、小田原かあ、懐かしい。東海道で行った小田原だ。

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信州松本・水野家墓所

水野家といえば徳川譜代大名。あれ、老中の水野忠邦を排出したのはこの松本藩だっけ?と思って調べたら、唐津藩が出身でした。でも遠縁ではなかろうか。

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徳川家康十男・徳川頼宜墓所

徳川家康の十男・頼宜の墓所。(家康ってば、オソロシイくらいの子だくさん)そして、あの徳川御三家のひとつ紀州藩の初代当主

この人の孫が、あの暴れん坊将軍こと徳川吉宗…というわけです。(唐突にマツケンサンバを踊る上様を想像して笑えてきた)

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伊達政宗墓所

伊達政宗といえば、派手好き。墓は…まあ、普通ではあるんだけど、そのスケール感に驚く。遠目で見ても目立つ大きさだ。
「どこの大名家なんだろう?」と思っていたら、伊達政宗単独とのこと。ひゃー!! 大河ドラマの独眼竜政宗、いつか見てみたい。

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石田三成の墓は、ひっそりしていた。

石田三成の墓もある。通路からは少し外れたところにあった。このようにひっそりと、そしてスケール感も伊達政宗を見た後だと、とても小さく感じる。(現代の一般人のに比べると十分ではあるが)

でも、良かったね三成さん。ちゃんとお墓、ありますよ。

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明智光秀の墓所。これは本当なんだろうか…?

明智光秀の墓所もあった。石田三成と同じく、少し外れたところにある。
でも、光秀の場合は「光秀=天海説」もあり、天海の墓こそが本物かもしれないなあ、なんて思ったりもした。

いずれにせよ、光秀の墓もちゃんと高野山にある。三成といい光秀といい、天下人の目線でいえば逆賊であるが、いつの時代に作られたものかは分からないがお墓があるというのは、なんだかじわじわと来るものがある。

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桑名城主・本多忠勝墓所

桑名の本多忠勝墓所だ。桑名も東海道で歩いたなあ、ということや、桑名には本多忠勝の像もあったことを思い出した。東海道を歩いたとき、桑名は雨が降っていたので、ちゃんと楽しむために、いつか改めて行ってみたいところだ。

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掛川・北条家墓所

掛川にも反応した、東海道ウォーカーの私。掛川では山内一豊とお千代さんのレリーフを見かけたが、山内家は徳川幕府になってからは土佐に移った。

調べたところ、掛川藩は頻繁に藩主の交代が続いており、太田家が入るまでは落ち着かなかった模様。なので、北条家と書いてあるものの、実質北条氏重単独の墓といえるかもしれない。(その家族の墓でもあるかもしれないが)

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加賀前田家・前田利長墓所
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加賀前田家・前田利長正室(永姫)墓所

加賀百万石の祖・初代藩主前田利長と、その正室永姫(織田信長娘)の墓は、向かい合わせになっていた。
夫婦仲はとても良かったという。

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豊臣家墓所の入口
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広い敷地

豊臣家の墓所は、階段をのぼらなければならない。標識が大きいのですぐに見つけられる。
すると、このように敷地こそ広いが、やけにシンプルな塔があった。派手好きの秀吉にしては立派な墓ではあるが、やけに地味だ。後世の人が建てただろうから、わざとそのようにしたのだろうか。

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なぜこの二人が並んでいるのか??

知名度の割に非常に小さな規模の信長の墓所、そして隣には家臣の筒井順慶の墓所がある。信長の場合は本能寺にも墓があるし、あちこちに点在しているので、高野山はこの程度なのだろうか。あるいは宗派が違うといえど、高野山の僧侶たちも比叡山焼き討ちに立腹していたのかもしれない。

しかし、なぜこの二名がここに並んでいるのかがちょっと分からない。筒井順慶は、本能寺の変後、明智光秀を裏切ったから…か?

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墓所通りはここでおしまい。

道が開け、ここまで来るとあの墓所の通りは終わりだ。奥の院は、写真には写していないが左端の方向にある。

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奥の院の写真を期待していた方、ごめんなさい。
奥の院は写真撮影が禁止されているので、カメラはリュックに入れてしまいました。これにて高野山の旅は終了となります。中途半端な感じで大変申し訳ございません。

奥の院には、弘法大師が今もなお人々の平和と安寧のために祈り続けているとされています。また、弘法大師のために食事を届ける僧たちの姿も、時間が合えば見ることもできます。

とても厳粛な雰囲気で、心がしんとするような感覚になるところです。ぜひ、高野山に来られたら、奥の院までお立ち寄りください。近くには宿坊がたくさんあり、精進料理と阿字観、写経などプチ修行も楽しめます。(私は以前、友人と金剛三昧院に宿泊させていただきました)

高野山真言宗 総本山金剛峯寺 (koyasan.or.jp)

高野山町石道ハイキング・これにて終了です!
今回も読んでくださり、ありがとうございました!

みなさま、よいお年を!





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