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私がホラーを好きな理由。

※本記事は2023年夏に共作ZINE【ぼくらがホラーを好きな理由】に寄稿したものです。


 私がホラーを好きな理由を語るために、まずは私がいかにホラーを嫌っていたかを綿密に語りたい。はじめに、私は物心がついた頃から臆病なガキであった。就寝のために布団に入ると殺人鬼が家に押し入って両の手首足首を切り落とされるのではないかと毎晩怯えていたのを三十路となった今でも覚えている。この時まだ3歳、このようなブギーマン像はどこから得たのかは自分自身謎であるがある種の不安神経症的でもあったように思う。


一番著名なブギーマンことマイケルマイヤーズ氏

 時を少し進めて5歳の頃、私は家庭の事情により一家で祖母の家に移り住んだ。祖母の家の真隣には祖母の姉一家が住んでおり、恵まれていたことに私は実の孫、息子、弟のように可愛がってもらいながら今日まで生きてきた。家が隣なのでアポ無しで我が物顔して親戚宅に訪問するのだが、これだけ可愛がってもらいながらも一つだけ杞憂があった。それは叔母と又従姉が大のホラー好きということだ。

 アポ無し故に運悪くホラー映画鑑賞中に訪問することも少なくなく、そうした場合には大泣きして映画鑑賞をやめるように懇願したものだった。傍迷惑なガキである。叔母さんの寝室には首の取れた大きな人形と、山積みにされた月間ホラー雑誌が置いてあり、立ち入らないどころか前を通ることすら怯えていた始末だ。最近になってわかったが、この山積みになっていたのは今やプレ値がつく、一部界隈で有名(?)な漫画雑誌ホラーMであった。


愛しき我が幼少期のトラウマ

 叔母は今現在に私が血眼で探している神田森莉先生のレディコミ風ゴア作品をリアルタイムで愛読しており、帰省時にこの話題になった際には悪趣味なストーリーを懐かしそうに語っていた。親戚からの愛情、またホラーメディアに恵まれた環境ながらも、その後もホラー趣味に目覚めることなくむしろ敬遠して少年時代を過ごしてきた。


みんなで読もう、怪奇ミイラ少女

 しかしながら決してホラーと無縁であったわけではない。祖母の家のすぐ近くにレンタルビデオ屋があり、土曜日の夜によく親戚一家に連れてもらった記憶がある。そして、怖いはずなのにわざとホラーコーナーの通路を通ったりした。それはまるで背徳的な存在に挑戦するかの如く…しかしもう一つ理由があった。ホラーコーナーの裏がアダルトコーナーになっており、棚の隙間からアダルトコーナーが覗けるのだ。この時まだ5歳、とんだ助平なガキである。一番アダルトコーナーが覗きやすい場所は食人族が置いてある特設欄だったのを今でも覚えている。ジャケットを見るだけで恐怖に震えるくせに、他の作品も手に取って見てみたものだ。だが、やはりそれ以上は踏み込めずにホラーとの出会いを先延ばしにしてきた。そして就学すると同時に私と家族はホラーの存在に触れやすかった祖母の家を出たのであった。


愛しき我が幼少期のトラウマ

 ホラー趣味に目覚めなかったからと言って少年時代の私が屈託なくすくすく育ったわけではなく、歪んだ家庭環境も相まって自分は世間一般の人間とは馴染めないズレた存在ということに気がつき次第に鬱屈していった。鬱屈した人生の中で閉塞感から抜け出したいが故に刺激を求め、辿り着いたホラーが私にとってはエクストリームミュージックであった。

 人生で一番初めに出会ったエクストリームミュージックである、12歳の頃に聴いたSLAYER/REIGN IN BLOOD収録のANGEL OF DEATHの衝撃は生涯忘れないだろう。威嚇的な音階に攻撃的なスピード、自分はこんな音楽を聴くことが許されるのだろうかと恐れ震えあがったものだった。幼少期に背徳に挑戦しホラーコーナーの通路をあえて通っていた、あの感覚と同じだ。当のSLAYERのメンバー自身もVENOMを初めて聴いた時は12歳の私と同じく恐れ震えあがったとインタビューで読んだ際には共感、そしてカタルシスを感じた。この出会いを境に10年20年エクストリームミュージックに浸り続け、さらなる深化を目指し音楽としてのホラーを探求するに至るわけである。


REIGN BLOODの裏ジャケ面のアーティストフォトではロン毛時代のケリーキング氏を確認できる



SLAYERも恐れたVENOMの面々



 こうしたエクストリームミュージックのアートワークやバンドテーマとしてサタニズムや死体、殺人等がよく用いられるが、元来臆病なガキであった私はこうしたテーマを良しとしなかった。あくまで耳で体感するホラーのみを享受していたのだ。そうした中、16歳の頃にたどり着いたのがAGORAPHOBIC NOSEBLEEDなる恐怖の深淵であった。


不道徳の権化

 シュルレアリスムの詩集か、はたまた薬物中毒者の戯言か、社会では異常者として爪弾き物にされる程の不道徳なコンセプトは私の人生を取り巻くくだらないものを代わりに一蹴してくれるかのようであった。“生まれたらクソして死ぬだけの話だ”、“震えて壊れてアシンメトリーな性器に早く出したい”、“へその緒を丁寧に採取し冷凍保存”、”クラブでチンコを丸出しにしてDJにタマをしゃぶるようにせがんだ“、”ケツをおっぴろげてお前の夢にクソを垂らしてやる“。全然意味が分からない。文字列を見るだけで吐き気がするような歌詞と共にBPM300超えの無機質なドラムマシンにザクザクと鋭利なリフが乗るのだ。もはや嫌がらせである。しかし私はこの時気が付き始めていた、自ら進んで不快な気持になりたいのだと。

 ここまでずっと音楽の話になってしまったので話題を映画に変えたい。16歳の頃にAGORAPHOBIC NOSEBLEEDに辿り着いたのと時を同じくして、ホラー映画人生を変える作品との出会いを遂げる。それがファブリスドゥヴェルツ監督作品の変態村である。変態村を知らない方に向けて簡単に作品を説明すると、売れない歌手の青年が辿り着いた男しかいない村で村人全員から愛され凌辱の中で死んでいく映画だ。


謎の剃毛も、また愛なのだ

 正直に告白すると、助平だったガキの私は変態村をエロDVDだと思って親に内緒でレンタルした。そして親が寝静まった頃に友人数名と鑑賞会を行い、開始から10分もした頃には自分の過ちに気づくのであった。友人達からすれば期待と股間を膨らませて鑑賞会に参加したところに、獣姦や謎のポルカシーン等の倒錯と退廃を重ねた映像を見せられたのだからたまったものではない。またも傍迷惑なガキである。ジョニーデップとウィノナライダー主演のラブロマンス映画シザーハンズを一番のお気に入り映画にあげていた生粋のロマンチストの私からすれば変態村は不快極まりない作品であった。(シザーハンズのプロットがユニバーサルのフランケンシュタインのオマージュであることに気が付くのはもっと後のことである)。


エドワーズは愛するキムを抱きしめられない

 作品を見た後も不快感が消え去らない私は常に変態村のことが気になり、作品に込められた意味を調べるようになる。興味深いことに、変態村はある種の宗教的な意味合いを持つ映画であった。端的に表すと狂人版のジーザスクライストスーパースターというわけだ。邦題も変態村と誤解を招きやすいが、現代はキリストが処刑されたゴルゴダの丘を意味するものである。つまり、変態村は人民から愛され羨望を浴び妬まれ処刑されるイエスをオマージュした愛の物語なのだ。これを知った時に不快な感情と同時にこうした映画作品にある種の美しさすら感じるようになった。この経験が私を倒錯した不快な映画作品ひいてはホラー映画を没入する足掛かりとなった。

 そしてまたもホラーに没頭する転機が訪れる。高校を卒業した夏、私はまたも家庭の事情から祖母の家で暮らすこととなる。大学進学も諦めざるをえず、将来への希望も失いどん底の状態である。しかしながら人生がいつ破綻するかわからない状況で、私はますます鬱屈していった。そうした中、大学に行きたかったが予備校に通う余裕もなかった私は宅浪を始める。友人が大学生活を満喫しもしくは社会人で休日を楽しんでいる間、私は家に引きこもりひたすら勉学に励んだ。その時の唯一の心の支えは、某デスメタルレーベルからリリース予定の自身のバンドのアルバムを作成することであった。

 月1本のライブ活動も大きな楽しみであったが、家に籠り詰めていた私は自宅での楽しみも求めるようになる。それがホラー映画への更なる深みへの一歩であった。祖母の家は田舎にあり、娯楽も乏しい。若者の娯楽と言えばドライブ、カラオケ、セックスぐらいのものだろう。(あくまで私の想像上の田舎像である)。そうした環境で4つ目の田舎の若者の娯楽として、レンタルDVD屋のホラー映画の品揃えが良かった。私の体感であるが、都会のレンタルDVD屋ほどホラー映画の品揃えはよくない気がする。きっとホラー映画もまた、ドライブ、カラオケ、セックスに次ぐ田舎の若者の娯楽なのだ。当時まだサブスクも無い時代、ジャケと裏面の作品解説で良し悪しを判断しフルチのサンゲリアといった名作を掘り当てたりした。その頃になるとホラー映画を見ても怖いとも思わず、もっと見たいという気持ちが先行していた。


サンゲリアのワンシーン。水中でゾンビが鮫と戦うシーンは私の中の何かを狂わせた。

 一歩、また一歩とホラー映画への深みへと嵌っていくのと同時に漫画の分野にも手を広げていくこととなる。兼ねてよりデビルマン、バイオレンスジャック、キューティーハニーを代表作とする永井豪先生やのぞき屋、殺し屋1、ホムンクルス等を代表作とする山本英夫先生の作品を好んで読んでおり漫画自体は好きであった。そして特に好んで愛書としてあげる漫画のテーマは破滅、読み終わった後に後味の悪さが残る作品に酔いしれていた。


永井豪先生は破滅をテーマにする。


山本英夫先生は現代社会の中の倒錯をテーマにする。

 しかしながら、若い時分の私はそうした陰鬱な趣味があることを認めたくなかった。これは漫画に限らず映画、音楽にも同じことであった。今思えば自分が鬱屈した人間であることをわかっているからこそ、それに向き合えずに目を背けていたのだろう。そして大っぴらにしないことで、陰鬱な趣味に人知れず浸る背徳に快感を見出していた。客観的にそのことに気が付くのはもう少し後になってからであった。

 少し時を経て25歳の頃、私は2年遅れて進学した大学を卒業し社会人となっていた。そして、詳細は割愛するが私は数々の挫折を経験していた。その一つ一つが今後の人生に大きく影響を及ぼす類のものであった。そうした挫折を経験する度に、自分は世間一般の人間とは馴染めないズレた存在ということを突き付けられた。そして抱えていた鬱屈はより一層はっきりと浮き彫りとなっていた。そうした中である作品が私の意識を変えることとなる。それは山野一先生の4丁目の夕日である。


 あまりにも酷い漫画があると風の噂で知り、怖いもの見たさで読んでみようと思ったのだ。あらすじとしては、ある下町の男子高校生とその一家の身にこれでもかというほどの不幸が次々に降りかかり破滅そして発狂する顛末を書いた作品である。文庫版初版帯のキャッチコピーは“人間、どう不幸になったってここまで不幸になれるものじゃない”だ。不幸と呼ぶには生ぬるい、この世の地獄を描いた黙示録的作品と呼べるだろう。気になる人はぜひ読んでみてほしい。


この世は残酷であることを過剰に突き付ける作品。

 作品を読み終わった私は本当に嫌な気持ちになった。工場の機械に巻き込まれ肉片になった父親、狂人に突然惨殺される妹弟、只でさえ日常で疲れ果てているのになぜこんなにも嫌な気持ちにならないといけないのだろうと疑問すら浮かんできた。精神的に激しく疲弊したがせっかくだから後書きも読んでみるかと目を向けたところ、そこには私が長年求めていた答えが載っていた。4丁目の夕日は山野一先生の初期作品であるが、本作を描いていた時分の先生も鬱屈した人間であり作品にそのフラストレーションをぶつけていたと。そして、鬱屈した人間は鬱屈した作品や表現でしか得られない癒しがあると。また本作は、前述の工場の機械に巻き込まれ肉片になった父親を描きたいがための作品であったと山野一先生は語っていた。

 そうか、そうだったのか、私がずっと陰鬱な趣味に人知れず浸る背徳に快感を見出していた理由はこれだったのか。鬱屈した私は鬱屈した作品によって癒しを求めていたのだ。この癒しの根拠については精神分析学的にも立証できる理論がある。音楽療法の場において用いられる同質の原理がそれだ。悲しい時には悲しい雰囲気の音楽、怒っている時には怒りを表すよう激しい音楽というように、同じ感情的性質を持つ音楽を聴くと癒しを得るという理論だ。音楽のみならず、漫画や映画にも同様な効果があると思われる。

 漫画作品においては恐怖漫画家の巨匠日野日出志先生の代表作である地獄変や赤い蛇も鬱屈や人生の閉塞感を描いており、恐怖と怪奇の表現の裏側にこの世で生きることの息苦しさと無常さが透けて見える。


きみは死ぬ!!

 映画作品においては、以外にもトビーフーパ―監督作品の悪魔のいけにえも鬱屈した感情がこめられた作品だ。長谷川功一氏著作アメリカSF映画の系譜の中で、SF映画とホラー映画は共に恐怖を題材とするジャンルであるが前者は社会が持つ恐怖であり後者は個人が持つ恐怖をテーマとすると述べられている。70年代のホラー映画を題材にしたドキュメンタリー映画アメリカンナイトメアにおいて、トビーフーパ―監督が自身のトラウマを悪魔のいけにえの作品中に落とし込んでいることを語っている。作中にソーヤー一家が食卓を囲むシーンがあるが家庭環境に問題があった監督にとって家族で囲む食卓が恐怖であり、その恐怖を作品に落とし込んだのだ。


トビーフーパ―監督が持つ恐怖のイメージ。

 気づきを得た私は小説、絵画、造形物、服飾といったジャンルの幅も広げつつ加速度的にホラー趣味に益々踏み込んでいった。そして陰鬱な趣味があることを認め、大っぴらにしていくことになる。これまで長い前置きであったが本題に入りたい。私がホラーを好きな理由、今やそれは癒しを求めているからではない。長い前置きを無に帰す、ちゃぶ台返しになり多少は申し訳なく思う。

 私がホラーを好きな理由は、ホラーが美しいからだ。それ以上でもそれ以下でもない。ホラーは美しいのだ。今までの前置きからして私はホラーに救われました、だからホラーが好きですという結末を予想された方もいるかと思う。散々述べてきたように私は破滅をテーマとしていたり、後味の悪い話が好きなのであって、イイ話は好きではない。

 ホラー趣味というのは贅沢な嗜好品でもある。本当に自分の命が危険にさらされていたらホラーたるものをあえて享受することもできないだろう。誤解なきように、過去の私のようにホラーでカタルシスを得て救われている鬱屈した人間も命の危険があるわけでないから大した悩みを抱えていないと言いたいわけではない。

 ホラーを貶める話題になっているように思われるかもしれないが、贅沢な嗜好品というは一般的に考えて生きていくうえで必要なものではない。悪く言い換えれば無意味なものである。この世には生産性という言葉に執着したり、意味のあるとされるものばかり尊ぶ人々がいる。そうした固定概念に捕らわれた人々は鬱屈した私にとって明らかに敵であるし、その考えにはまったく賛同できない。この世で必要なものや意味のあるとされているものは、あくまで第三者が定めた価値観にすぎない。

 こうした固定概念を取り払った時に、生きていくうえで必要でないもの、無意味なものの美しさに気がつくことができるだろう。そしてその美しさにどんな意味を見出すかは自分次第なのだ。ルチオフルチのサンゲリアに登場するゾンビの眼孔からこぼれるミミズは、もしかすると必要のないかもしれない。しかし私はこのミミズに美しさを感じる。このミミズがいないだけでサンゲリアの印象が大きく変わったかもしれないとも思う。私の人生にとって、ホラーとはこのミミズのようなものだ。


本作はロメロのゾンビ(1978)公開に前に制作が開始され、いち早くゾンビを過剰に腐敗させた先進的な作品である。

 ホラーに踏み込む経緯はカタルシスであった。しかし今やそれはホラーが好きな理由ではなく、ホラーが好きになったきっかけである。今一度繰り返すと、私がホラーを好きな理由は美しいからである。私は今、独自の価値観に従いホラーに見出した美しさにただ陶酔しているのだ。

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