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ニッポンの会社で働いたことがある
もう十数年も前のことだけど、勤めていた会社を辞めてから引越し当日までしばらく日数が空いたことがあった。知り合いの派遣会社の営業さんにそのことを相談したら、短期で出来る経理の仕事を紹介してくれた。繁忙期の2週間だけ助っ人が必要で急募がかかった仕事だった。
会社で部署内の小さなプロジェクトの予算管理を任されたことがあったのと、バランスシートの書き方を知っているというだけで私に向いていると思ったらしい。
ちなみに私は経理関係の資格は何も持っていない。
私が働いていた会社は米系外資で経理システムは当時既にオンライン化していた。バランスシートはアメリカの大学でビジネスのクラスを取ったときにチラッと学んだものだ。
こんなド素人の私に声がかかるということは、多分本当に猫の手も借りたいくらいの忙しさなのだろう。データ入力だろうが領収書の整理だろうが、出来ることなら何でもやろうと意気込んで引き受けることにした。
紹介された派遣先の会社は郊外にある工業団地の中の一社で最寄り駅からは通勤時間に合わせて周遊バスが出ていたが、そこで働く人のほとんどは車通勤をしていた。
自宅から郊外へ向かう電車は空いており、周遊バスもほとんど人が乗っていない。
普段ぎゅうぎゅう詰めの電車に揺られて貧血を起こすギリギリのところ(実際に何度か倒れたことがある)で通勤していた身からすると天国のような環境だ。
指定されたバス停留所には錆のせいでセピア色に変色した立て看板がポツンと置かれていた。朝の通勤時間帯なのに辺りには人っこひとり歩いていない。
停留所前の区画は空き物件のようで、フェンスの根元にはぎっしりと背の高い雑草が生い茂っていた。視界の先に見える四角い大きな工場がジオラマ模型のように見える。
進行方向逆へ少し歩いて角を曲がったその斜め先にあるのが勤務先の会社だ。敷地へ入る門のところには警備員さんが立っていた。
制服制帽姿のおじさんに朝の挨拶をし、事務所までの道のりを歩く。敷地内は大型トラックが迂回できるようになっていて、ただただ広い。
事務所棟の扉を開けると膝丈スカートの事務服を着たベテラン風の女性が出迎えてくれた。その会社では工場で作業をする人は作業服、事務所にいる男性はスーツ、そして事務所にいる女性は紺色の事務服を着ていた。
柔らかい素材のボタンシャツの上に黒いカーディガンを羽織ったスラックス姿の私は少し浮いているような気がする。
馴染めるだろうか?
一瞬不安が過るが、たった2週間のことだ、と自分に言い聞かせ、案内されるがままに奥へ進み、一通りの挨拶を済ませてから席についた。
隣では同年代と思しき女性が書類の束をめくりながら何やら作業をしていた。
案内してくれた女性は彼女の上司で、私はこの2人の仕事のアシストをするためにやってきたのだ。
もうだいぶん前の記憶なので詳細は覚えていないが、その時私に託された仕事は入力済みのデータをプリントアウトして整えた後にファイリングしたり、要確認書類をまとめて承認を取ったりすること。その他諸用は都度指示に従えばいいとのことだった。
とにかくこの2人からこぼれ落ちてくる雑用庶務をやればいいのだ。
それなら猫の手としてやってきた私にだってできる、そう思った。
席につくと早速書類を手渡され、仕分けをして承認願いの表紙をつけるよう指示された。
言われたことを言われた通りにすることくらい、初出勤で事務所に足を踏み入れてから15分くらいしか時間が経っていない私にだって出来るさ。その会社で何を作っているのかなんて知らないし、出入りする大型トラックがどこから来てどこへ行くのかにすら興味がない。
言われた通りにさっさと仕分けをして承認願いの表紙をつけていると、隣の女性が話しかけてきた。
「あ、そこ、そこね、判子押しといて」
ハ・ン・コ?
『判子』という言葉に目を丸くしている私の様子に気づいた女性が、「忘れたんなら今日はサインでええよ」と付け加えてくれた。
よく見ると承認願いの表紙には縦長のマス目がついている。どうやらそこに作業をしたり目を通した者の印を入れなければならないようだ。
以前働いていた会社の私がいた部署では全てが手書きのサインで処理されていた。個人名の判子を使っている人なんて見たことがない。オンラインのものは登録アカウントから作業をしていたのでいちいちサインをする必要がない。
そう、私は仕事で自分の判子を使ったことがない。必要だと感じたこともない。公式書類に社印を押すことはあっても個人の判子を押す機会はなかった。
私にとって判子は個人的な契約を交わす際に必要なもので、業務で使うものではなかった。だから普段持ち歩いたりなんてしない。
「明日は忘れずに持ってきてね、判子」事務服を着た彼女にそう言われた時、これがニッポンの会社なんだとしみじみ実感した。
「わかりました、すみません」そう言いながらマス目に自分の名前を書いて渡すと、事務服の彼女が秒で固まった。何かを私に言わなければならない、だけど躊躇している、そう感じた。
「あのね」彼女はゆっくりと私に説明してくれた。
「こーゆーのはね、下から順番に押していくものなの」
縦長で作られたマス目の一番上に書いてしまった私のサインを修正液で消しながら、一番下のマス目を指差した。ここねって。
うわぁ、すみません。ごめんなさいっ。初っ端からやらかしたぁ〜。
そんなことも知らないの?常識よ、って思っているそこのあなた。その常識、いつどこで知りました?
私の人生でそんな常識を知る機会は、幸か不幸かあの時のその瞬間までなかったのですよ。そんでもって当時はもうええ歳してたから、注意する側もかなり気まづかったんじゃないかと思うわけです。(ホンマに申し訳ない)
とりあえず初日にやらかしたおかげでなんとなくニッポンの会社の掟っぽいものに触れることができて貴重な経験となった。その後2週間きっちりと勤め上げ、給与の振り込みを確認してから日本を後にした。
今はまた判子とは縁遠い生活をしている。そして多分、今後仕事で判子を使うことはないだろう。
あの殺風景な工業団地へ通っていたことが、今ではまるで夢か幻だったかのように思える。セピア色をしたバス停留所の看板は今でもあのままなのだろうか?