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思い出と呼ぶのもおこがましいほどに
君からの便りはいつも唐突で。
そう、本当にいつも唐突で。だから不意打ちの知らせに心が躍るのだろうか。恋とはちがう。トキメキがあるわけではない。この感情や関係性に名前は要らないと思う。
友達とも呼べないくらいの希薄なつながりのなかで、僕たちは何を期待しあっているわけでもない。
君の人生はこの先、私のそれと交わることは無いだろう。なんとなく手持ち無沙汰なときに思い出し、気まぐれで連絡をしてしまう。それ以上でもそれ以下でもない。
だけど、「◯◯さん」と名字で呼ばれることが当たり前になってくると、不意打ちの下の名前の呼び捨てが、とても懐かしい記憶を呼び覚ます気がする。
それは決して君に基づいた記憶というわけではなく。
下の名前で呼ばれるのが当たり前だったあの頃の甘酸っぱい記憶やほろ苦い思い出を。
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今思えば何がそんなに好きだったのか分からない人が大好きだった。私の恋人になってほしくてたまらなくて、わかりやすいほどに視界に入ろうと必死だった。
二人きりでドライブに行けるなんて夢のようで。まだまだ10代の私には”車を運転する男性”というのはそれだけでかっこよかったし、私を非日常に連れて行ってくれるには十分だった。ひとり暮らしを始めて門限も気にしなくてよくて、日がくれきって空には星が見える頃に家路につけるのが、なんだか大人になれた気がしていた。
そういえば、あの人との連絡はメールだったな。
今はラインが主な連絡ツールになっているけれど、まだメールが主流の頃。当然スタンプなんかなくて、絵文字か顔文字か精一杯のデコレーション。絵文字は決して使わない彼からの顔文字が大好きだった。黒白の画面なのに、なんだか桜色のオーラをまとっていた気がする。
なんで別れたんだっけ。
10代の恋にしてはそれなりに長い期間付き合っていたと思うけど、終わりの記憶というのはいつも曖昧で。いつの間にか終わったあれは、きれいな思い出になっている。
嬉しかったことや楽しかったことだけを私の胸に残して、終わったなにかとしてしっかり処理されている。だけど、こうやってたまに思い出すとあの頃の恋に一生懸命だった私ににやけてしまう。
恋をするといつだって一生懸命にはなるけれど、あんなにまっすぐだったのはきっとあれが最後じゃないか。
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なんていうか、なんていうのだろうか。
たぶん君は私と社会的なつながりが無いからこそ、まだまだ子供だったころの青臭い自分を思い出させてくれるんだろう。
あけましておめでとう
なんて、きっと送る相手なんかじゃないけどね。