こんな人間が、1人くらいいてもいいかも。
-本文に入る前に-
初回でお伝えし忘れましたが、私のnoteは回によって暗い内容や重たい内容も書くことになるかと思います。読んでいて疲れたり、辛くなったりした時は、そっと閉じて気持ちが落ち着きそうなことにシフトすると良いかと思います。
-ここより下から本文に入ります-
初回投稿はほぼ挨拶だったということで、早速1つ、文を書こうと思います。
生きるをとらえる。
全ての人から好かれたい。
みんなから肯定されたい。
そう、長く思ってきました。
人から認められれば、私が生きていても良い理由になるんじゃないかと思っていました。
そんな私にとって、「認められたい」という願いと、「全ての人と分かりあうことはできない」という現実との対立は悩ましく、自分は生きて良いものかと苦しい時を過ごしてきました。
(私が尊敬する、とある方がこれを読んだら、「しんだ方がいいひとなんていないと思いますけどね、」と諭されそうですが。)
やはり、生きていていい理由にするには、人に認めてもらいたい、生きることを許されたいという願いは、他者に大きく影響されるという点で危うく、なかなかそぐわなかったようでした。
そこで、自分の願いの根っこはどこにあるのだろう、なにで作られているのだろうと、ここ1年程自身に問い続けてきました。
何度目の問いかけかも曖昧になったある時、ふと、"ここで生きて良いと許される"ことと、"交わることはないかもしれないが、この世界のどこかには、こんな人間がいてもいいかと思われる"ことは、見た目は似ているけれど少し違うと気づきました。
そして、"こんな人間がいても良いかと思われたい"という願いは、他人からの認めの中でもクリアされやすく、また、自分が自身を許すことでも叶えられ、かつハードルも低め、というお得な願いでした。
沢山人はいるんだから、私みたいな人がいてもきっと大丈夫。
もちろん今でも落ち込んだり悩んだりしては、生きることについて思考を行ったり来たりさせています。なんだったら結構くよくようじうじと考えます。
ただ、自分みたいな人もどっかにはいていいんじゃないか、と思えた時間があったこと自体を、これからも思い出していけたらいいなと思っています。
この気づきはまた私の、別の(プラスの)願いを生んだのですが、その話はまた追々小出しにできたらなと思います。
生きていていいのかな?と知り合いに聞かれたら即座に、生きていていいんだよと心から答えられるのですが、自分のこととなるとどうしても卑下してしまう。この性格は私の中で根強いようで、しんどいことはあります。とても。
ですが、ここまで読んでくださったあなたが、そして未来の落ち込んだ私が、少しでも息がしやすくなっていたら嬉しいです。
2024.12.15 note2
#miamakoto #20241215
#こんな人間が1人くらいいてもいいかも 。