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【詩に至ル病】THE BLUE HEARTS真島昌利経由で中原中也を知る。
僕は山口県生まれの山口県育ちであり稚拙ながらも詩を書いてるこの身からして殊に中原中也という存在は(巨大ではないが)気になってしまうのである。しかし中学まではその名すら知らなかった。詩というものは教科書に載っているものでしか触れていなかったであろう。詩なんか必要なかったのかもしれないし、僕にはまだ早かったのかもしれない。(中学校3年間は暗黒第1期)そして落ちるべくして高校受験を失敗して、私立の普通科男子部に通うことを余儀なくされる。(高校3年間は暗黒第2期)忘れもしない高校1年生16歳だ。季節は忘れてしまったが夏の初めあたりだったろうか。当時親戚から貰った木目調のステレオでラジオやレコードを聴いていた。もうその頃は既に落ちこぼれていて、悶々とした毎日を送っていた。外は暗かった記憶がある。その日もどうしようもない一日を教室で過ごして自室に逃げ込んだのであろう。ステレオをONにしたら「どぶねずみ~みたいに~」と調子外れのダミ声の歌が流れてきた。ブルーハーツ体験である。この歌に心撃ち抜かれたんだよね。ブルハ前ブルハ後では全然意識が違う。よくあるパンク履き違え状態ですね。探しに探してブルーハーツ1stアルバムをカセットテープで買ったもの。で、どの雑誌の写真で見たのか忘れてしまったけどブルーハーツのギタリスト真島昌利が来ていた帽子かぶった中原中也のプリントされたTシャツだったのだ。「宿酔」の一節が印字されてる有名なやつ。Tシャツ柄ベースのエンジ色を出すのに苦労したのだとか雑誌の記事に書いてあったように覚えている。「ブルーハーツのマーシーが着ているんだからきっとパンクなんだろう」
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そして同じぐらいの時期の現国の授業で「一つのメルヘン」が取り上げられる。現国の教師がこの詩の不条理な世界観を早口で解説して終わってしまったのだが、これが契機だったとは云えないが僕は変化していった。とにかくパンクの人になりたかった。いや僕みたいな奴がパンクの人になるべきでしょう!パンクの人になれる!きっとなるんだ!パンクの人になるにはどうしたらいい?なれなかったよね。片田舎のニキビ面のギターの弾けない冴えない男子高校生には!高校在学中はバンドはあきらめ、散文とか詩とかの方法でパンクの人になろうとするんだけど、これもダメ。書いていた詩は全部当時片思いしていた女の子のことばかり。架空の自分のバンドの歌詞カード作ったりね。ヘタウマや相原コージ「コージ苑」に触発されて四コマ漫画描いてみたり、エロ漫画を描いてみたり、迷走、そして泣きながら撤退。
高校を何とか卒業出来て、編集デザインの専門学校に通う為に福岡に出て行って、しばらくして山口市に中原中也記念館が開館されたんじゃなかろうか。卒業制作で作った自分の詩集の装丁は本物の鋲だらけの「Vacant Vacation」という題名。これも酔っ払った勢いで女の子の気を引くためにたった一冊しかないのにあげちゃったりしてね。こう思い起こしながら書いていくと、真島昌利にも中原中也にもそんなに影響受けてないような気がしてきて恥ずかしくなってきた。ジャック・ケルアック「路上」カッコつけで読んでみたけどピンとこなかった。でもね友部正人はとてもよかった。ダダイズムは模倣するのは簡単そうだからと狡い思惑満載で、本質はわからんちんだよ!うわべだけだからね。でも両者を知らなければ確実に退屈な人生を送っていたんだと思うよ。高校からずっと引きこもっていたかもしれないしね。勘違いしていたけどパンクや詩というツールを使って、あれでも外の世界とコンタクトしようとしていたんだからね。それは今でも変わらない。パンクの人になりたいんだ。