努力について
ライター︰種市慎太郎
昨今の情勢で、『自己責任だ』『努力不足だ』『頑張りが足りない』などと世の中のありとあらゆる方面から意見が飛び交っているが、私はそれに少し違和感を感じるのである。
『努力が足りない。』『自己責任だ。』と言う人はSNS・新聞・テレビと至る所にいる訳だが、そう言う人の顔は総じて、どこか嫌味なのだ。
嫌味というか、どこか冷たく、他人事なのだ。そういう人は、貴方の息子が、娘が、努力不足の烙印を押されて底辺に追いやられた時に、何と思うのだろう。また努力不足だと、責めるのだろうか。
世の中には2種類の人間がいると思う。努力ができる人間と、努力ができない人間だ。更に、その努力ができる人間のうち努力を続けられる人間と、努力を続けられない人間に分かれる。努力を続けられる人間も又努力が実る人間と、努力が実らない人間に分かれるのだ。
別に努力ができる人間はここでは問題にしない。沢山の枝分かれはあるし、そもそも努力という、かなり難しい事業ができるのだから、できるだけで偉いのだから、そのまま頑張れば良いのである。
問題は、努力ができない人間だ。これにも、分類があると思う。まず第一に、努力をしようとしない人間と、努力すると言う事を考えられない人間に分かれる。前者は、何らかの理由で、怠けてしまったり、努力すること自体がばかばかしいと思っていたりなどさまざまな理由で努力を「しない」のだ。後者は、努力という事を考えられない人間だ。思考力が足りない、環境が努力の前に生きる事を求めてくる、何らかのハンディーキャップを抱えているなど、努力という発想に「行きつかない」のだ。
私は、この努力という発想に「行きつかない」ものと、努力を「しない」人間を区別することが肝要だと思っている。
つまり、この二者に対しての、アプローチは、別々でなければ本来成立しないということである。
努力に「行きつかない」という人間には、機会を与えなくてはならない。それは思考をする機会であったり、じっくりと自分と向き合えるだけの機会であったり、衣食住に困らない機会であったり、抱えているものによって様々である。しかし、何だったとしても、社会というものはこの、「行きつかない」種類の人間に対して、「積極的に」介入を行い、機会の不平等をなくしていかなくてはいけないのである。
しかし、一方として努力を「しない」という人間には、この限りではないと思う。機会を与えるのは、無意味に終わる。機会は、あるのだ、それを活用していないだけで。別に機会が、不足しているわけではない。むしろこういった人種には、「消極的」な希望を与えた方がいいのだ。決して押し付けがましくはなく、しかし、楽しそうな、綺麗な、安心のできる、希望を伝えるのが良いのだ。
天岩屋戸(あまのいわやと)の話と一緒だ。中にこもっている人間に対して、こじ開けるのではなく、楽しそうに、美しく、騒げば良いのだ。思わず覗きにくるくらいの、熱量を浴びせれば良いのだ。そして扉を開いた時に、いっきに、連れ出せば良いのだ。
この二つの対応が違うのは、前者は先天的な要因が大きく、後者は後天的な要因が大きいということが言える。
先天性の場合、変わるのは本人ではなく、本人の周りである。社会がもっと寛容に、もっと多様になることで、溢れるものを減らす。我々が社会福祉国家という概念を生み出した時に、考えた社会福祉のあり方とは、個人では社会に合うことのない人間に、社会が歩み寄る。溢れる人間を作らない。そういったものではなかったか。
しかし、後天性の場合はその逆だ。変わるのは本人だ。というより、本人の内的な要因がほとんどを占める後天性の場合、本人が変わらねば結果は変わらない。
だが、ここでも社会福祉国家の概念が出てくる。社会福祉国家とは、落ちこぼれを作らないためのシステムだ。であれば、ここでも社会は歩み寄る必要がある。
しかし、先天性の時のような積極的介入ではない、むしろ静かに、そして暖かな消極的な介入を行うべきなのだ。
ここら辺がズレている人が多い。つまり、努力不足は全て当人の責任だと思う人間や、怠け者には一切の歩み寄りをしなくても良いと思う人間である。
努力不足を、当人だけの責任に帰す事は、不可能であるし、怠け者といえど、その怠け者が前に進む道を、作るのが社会福祉国家というものであるのだ。
努力不足を叩く人たちが嫌味で冷たく写るのは、ここがどちらもわかっていないからだと思う。自己責任とは、すなわち社会の無責任である事を自覚していないのだ。
社会というものにできる事は少ない、しかし、その社会において、社会福祉国家という概念を生み出した人類の、そのコンセプトは画期的だったと思う。2000年以上、人を蹴落とし続けた人類が、初めて作った優しい制度なのだ。例え難しかろうと、少なかろうと、それを維持しようと考えるのは、そんなに馬鹿げたことではないと思うのだ。
これを読んで、努力が何故必要か、という人もいると思う。必要ではない、しかし、努力をしないにしても、できないにしても、努力をしたいと思った時に、できるようにしておくくらいの事をするのが正しいのだ。
努力をしない生き方でも良い。しかし、当人がもしくは当人の周りが、努力を求めた時に努力をする、できる環境を整えることが、社会として健全な形なのだと私は思う。
UKARI は、その道の一つになりたいし、閉ざされてはいけないとも思う。いつでも良い、頑張るという選択をできる、そしてした人間に寄り添えるシステムであって欲しいものだ。
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