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忘れもしない、エルサルバドルの移民問題を一番身近に感じた日
「… あの子、来月アメリカに行くらしいよ。」
「ああ、あの人ならたったこの前(移民して)行っちゃったよ。」
そんなやりとりが、ふとした日常会話に登場する中米・エルサルバドル。
エルサルバドルに住み始めて2週間も間もない頃、同国の移民問題を一番身近に感じた出来事がありました。本稿では、当事者の話を起点としてエルサルバドルの移民事情や感じたこと、気づきを共有します。※プライバシーの観点から一部内容を変えています。
(ヘッダーは「その日」に見た、apocalypse世界の終末を彷彿とさせた燃えるような夕日)
「そのとき」は突然に
「実は、来週アメリカに行くことになったの。だから来週からは新しい先生が教えることになると思う…」
エルサルバドルに到着して15日。私はとある地方都市の語学学校に通っていた。先生方とも打ち解けてきて、センシティブな移民事情についてもちょくちょく授業中に教えてくれるようになっていた。そんなある日の休み時間、先生から突然そう告げられたのだった。
——エルサルバドルでは、「アメリカに行く」とは「アメリカに移民として行く」とほぼ同義であり、「行く」といっても大体は不法な手段なので優雅に飛行機旅とは訳が違う。バスや徒歩、時には真っ暗なトラックの荷台に潜んでメキシコとアメリカの国境を目指す。
別に、何の前触れもなかったわけではない。これまでも移民事情について話を聞くなかで、彼女の葛藤が垣間見える場面がいくつもあった。彼女の家族は、母親と彼女以外の兄妹が皆アメリカに渡っており(滞在形態は様々)、「何年も会うことができていないし、私も寂しい…」と本音を漏らしたことがあった。極めつけは、旦那さんが去年から単身アメリカに出稼ぎに(不法移民として)行っており、「本当は家族みんなで暮らしたい。向こうに行ってでも一緒にいたい」とか——
だから、いつかは行くのかな、となんとなくは思っていた。だが、「その時」がまさかこんなに突然くるなんて。悲しさと、また家族と再会できて嬉しいだろうなという喜びと、それでもやはり危険の伴うことなので心配とで、複雑な感情が入り乱れた。
——「決行」(不法移民の場合は特に)は突発的に起こることが実際。人によるが、多くはコヨーテCoyoteと呼ばれる密入国斡旋業者(いわば移民のガイド的存在)を雇う。詳細は割愛するが、米国の法律、国境付近の状況、気候など、様々な要因が合致した時に出発の時期を言い渡される。それは来週か、3日後か、もしくは明日かもしれない。だから私は彼女の「来週」という言葉に驚きながらも、移民事情のリアルを垣間見た気がした。
「数年したら…」と言い残していく数多の移民たち
ひと通り感情の波に晒されたのち、今度は私の中にたくさんの疑問が生じた——向こうに行ったとして、帰ってくるつもりはあるのか。そうなら何年くらいいるつもりなのか。生計を立てるツテはあるのか。子どもたちの教育はどうするのか…
私は溢れてくる疑問を押さえながら、「何年くらい向こうにいる予定なの?」とだけ聞いた。彼女は少し考えながら、「3年くらいはいたいと思うけど、5年以内には帰ってきたい」と静かに返した。想像していたよりも短くて再び驚きながら、私は何て返そうかと少し考えた。おそらく、私がエルサルバドルに滞在している間はもう会えない。
「じゃあ私がアメリカに行ったら会えるかな」と絞り出すように言った。
———
お昼休憩となり一旦帰宅した私は、ホストマザーに「移民していった人たちがどのくらいで帰ってくるのか問題」についてそれとなく聞いてみた。ちなみにホストマザーの兄弟もほとんどがアメリカで暮らしており、元旦那さんも20年以上向こうで暮らしたのちに帰国している。普段は感情をあまり表に出さないタイプの彼女だが、辛辣そうな顔をしてこう言った。
「『数年経ったら。』移民していく人たちはみんなそう言って、何十年、下手したら一生帰ってこないこともある。だから、家族や親しい友人が向こうに渡っていくたびに、一生会えないんじゃないかと思う。すごく悲しい」と。
———
その夜、私はずっと考えていた。来週アメリカに行ってしまう彼女を。彼女の未来を。これまで、「いずれは帰ってくる」と言い残していったであろう数多の移民たちを。残された家族たちを。そして、こんな選択肢が存在してしまうこの国を。この世界を。
願いと拒絶、葛藤の先の選択
アメリカ行きを告げられた2日後。朝のテスト前、いつも通り調子はどう?という会話から始まった。いつもは「Bien (うん、いい感じ)」とシンプルに返ってくるのだが、その日はどこかつらそうな顔で「No, no estoy bien (ううん、全然(調子)よくない)」と。
なんとなく事情は察しながら訳(わけ)を聞くと、いまだに上の子の説得が難航しているという。(実はアメリカ行きの話を初めて知った際、中学生である長男の方は、友達と離れたくないため本当は行きたくない、ということを聞いていた。)「僕は行きたくない」の一点張り。しかも、ひとり置いていくお母さんの調子もあまり良くないらしい。でも、「もうやめるには遅い。全てが listos(準備万端)で、今更取りやめる訳にはいかない」と…
そう話しているうちに、彼女の目に涙が浮かび始めるのが見えた。弱冠30台半ばで、女手一つでそれぞれの思いを抱える家族をまとめ、越境しなければならない。いくら自分の望む未来へ向かうためだとしても、あまりにも精神的な重圧が大きすぎるように感じた。彼女の苦しみに共感して今にも溢れ出してきそうな涙を堪えながら、私はただただ彼女を抱きしめることしかできなかった。
抱きしめながら、幸せって何なんだろう、とふと考えていた。
移民の原動力とは
エルサルバドルの移民問題は同国の大きな社会問題のひとつであり、中南米諸国同様、国際問題となっている。私はこれまで、移民は経済的理由が一番大きな要因だと思っていた。
しかし彼女のストーリーに出会った今、もはや経済的な理由だけが移民の動機とは限らないことに気がついた。そんな単純な話ではなかった。アメリカに移民した家族や友人のいるケースが多いなか、むしろ愛がゆえ、家族との再会が大きな原動力になることも少なくないのではないか。
移民の経緯には本当に多様な背景があるのだと、まだまだ知らないことだらけだと痛感した。
以前、国際機関事務所でインターンをしていた頃、移民についてのニュースをほぼ毎日追っていた。実際にエルサルバドルに来てみて、当事者の話を聞いて、データだけじゃない感情の乗った情報を目の前にして、私は心がかき乱された。そして同時に、ここにきてよかったと心底思った。自分の目で見て聞かないと知り得ない、取りこぼされてしまう現実がたくさん散らばっているのだと感じた。だから私は、出会いに行って、話して、耳を傾けて、それを発信していきたいんだと再認識した。
編集後記
ここまで読んでいただきありがとうございました。
この記事は、実は4か月前(4月半ばころ)から書き始めました。こんなにかかるとは思っていませんでしたが、内容が内容なだけに、時間がかかってもいいから、自分のペースで納得のいくように書こうと考えていました。(個人的に、他に集中したいことがあったのもありますが…)
どんな構成で書いたら読む人に少しでも興味を持ってもらえるだろう?落としどころはどうしよう?どこまでの情報を載せよう?
いろいろ悩みました。
途中1か月くらい寝かせて、やっと今日もう一回向き合ってみました。8月15日(昨日)、戦争だったり、平和だったり、幸せについて考えることがいつもより増え、ふと思い出してnoteの編集ページを開いた次第です。時間が経ったら、またいろいろと手を加えたくなるんだろうなと思いながら、とにかく今の私の精いっぱいの文章を公開してみることにします。
エルサルバドル滞在が10か月目に達しようとしている今、あれからさらに多くの、多種多様な「移民」のストーリーに出会ってきました。すべてを語り尽くすことはできないけれど、いろいろ出会うなかで感じたことをこれからもシェアしていきたいと思います。