謝罪と許す事と受容の話

長年思っていることがあって「謝罪されたら許さなければならないのか」と言う事。
若い時からアメリカのドラマをよく見ていたんだけど、かなりの事をされても謝罪があればそれを受入れ許す場面が良くある。そのたびに「え?!こんな酷い事されたのに、許すの?また友達に戻るの?」と思っていた。
 いまではキリスト教の思想が根っこにはあるのかなって思うけど、ずっと違和感だった。日本でもそこまでではないにしても、同じような風潮はあると思う。

 【3月のライオン】と言う漫画に、いじめの加害者が言葉だけの謝罪をみんなの前でしたあと、被害者が先生に「私許さなくて良いですよね」と言う場面がある。私もずっとそう思ってきた。
 
  大人になってから起きたことだって「ごめん」って言われたってそう簡単には許せないし、何なら一生許しませんけどって思っていることがいくつかある。普段は記憶の奥底にしまわれてるけど、ふとした瞬間に思い出す「そうだ、あいつにこんなことやられたんだった!!」(笑)
 『私は心が狭いのかな』って思った時期もあったけど、許せない物は許せないし、ラインは人それぞれだ。
 相手が友達なら、そのまま会わなくなったり連絡を取るのをやめたりするのかもしれないが、家族の場合はそうもいかない。
 
   私は一度「謝ったって何回も同じこと繰り返しているし、謝られたら許さないといけないと思っちゃうし、聞きたくないから謝らないで、この事を許す事はないから」の様な事を言ったことがある
 
  それでも関係は続いているし、それが受け入れるってことかも。許さなくても関係は続けられることもある。許すと受入れるは微妙に違う。

 もちろん暴力とかは別の話、問答無用で離れなければならない。
 そうでなくても一緒に居るのも、話をするのも嫌だと思ったら離れるのもあり。
 家族だから絶対助け合わなければならないと思っているわけでもない。

謝罪して許す(許される)事って、謝罪する側のためなのかもしれない。
「ごめんね」って謝って「良いよ」って言われてほっとする。小さい問題で被害者側も納得しているならこれで対等な関係に戻れるかもだけど、被害者側にわだかまりが残ったまま、でも謝ってるし許さないとと言う気持ちがある中だと、その後も被害者側のモヤモヤは続き結局関係が破綻したり、同じ状況が巡ってきたりするのではないだろうか。
 
 人を自分の思い通りに変えることはできない、人にはそれぞれの事情があるし、自分だってそう(強制)されたら嫌だから。

 自分以外全員他人、「私以外私じゃないの」だ。
 自分の思い通りに行かないんだから、話したり諦めたりして調整していくしかない。

     まとまらないまま、おわり