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長編小説「独身記念日」(12)

「独身記念日」(12)

 スマートフォンに耳を付けるとすぐに、電話口の松木は妙に耳障りの良い声でツルタの名前を何度か呼び掛けた。電話はメッセージアプリの通話機能を通さずに直でかかってきていた。ちょっと前にスマートフォン内の連絡先リストを整理した際「もう連絡する気はない人」をちょこちょこ消したはずだったのに消してなかったのか、あのとき何を思って残したんだろう自分は。個人的に友人知人から電話をもらうことなんて、しかも男性からはここ最近久しく無かったのでツルタは急に緊張してしまいながら、籠った声でもしもし、とそれに応えた。

「うわっ、ほんとに出た。ユキコちゃん?電話出てくれてありがと。俺のことわかる?」

「…、わかるけど」

 網戸を開けたベランダの窓枠に寄りかかって静かな夜の空気に撫でられているツルタとは裏腹に、少しうわずって高揚したような松木の声がツルタには少々鬱陶しく感じたが、その気持ちを抑えて言った。松木とは中学校卒業後、偶然大学でも同じ学部で同じクラスになったことで再会し、卒業して社会人になっても、緩く開催される大学の集まりで会う程度に繋がってはいたが、それも五年くらい前までの話なので直接話をするのはかなり久しかった。

 この電話が一体何の用か見当が付かなかった。なんで出てしまったのかとすぐにツルタは悔恨し、どうにか切る方向に自分が上手くやってくれるよう一瞬強く祈願した。

「本当にわかる?」

「わかるよ、松木勝彦でしょ」

「フルネームまで覚えててくれたんだ。顔は覚えてる?」

「もちろん覚えてるよ、ってか忘れるわけないでしょ、そんな」

「まじ?こんな馬鹿みたいな顔覚えてるの?」

「え?うん、顔ももちろん覚えてるよ。何言ってんの」

 そう言われてツルタの頭に松木が思い浮かんだが、その姿は、五年ほど前に会っていた頃のそれではなく、どうしてか大学時代のきょとんとした目つきと、いつも印象的だったその頃出回り始めたルイヴィトンのダミエ・グラフィットのボディーバッグを胸の高い位置に必ず装着してヘアセットを気にしていた姿の方だった。昔、松木は中学校時代の数ある部活の中でも賑やかしかったサッカー部の中でいつも男友達に囲まれているような、色気のない普通の垢抜けない男子だったが、大学生になると、女子とも関わることを覚えて結構面白い冗談や傷付けない塩梅のいじりも上手くなっており、自然とクラスではまとめ役になるような人物だった。当時は、そういう変化もあるもんだなぁ、というようにツルタは思っていた。中学卒業後、松木は実家が確か新潟に引っ越し、高校時代はそちらで過ごしたようだが、大学当時それとなく高校時代のことを会話の中で聞いたことがあっても大体「マジで田舎だったわぁ」とふざけ笑っては、つやつやしたその髪をいじっていて、確か高校時代のことはよく読み取れなかった。そのときの松木が自分の中で結構印象的だったのか、とツルタは思いつつ、ここ最近の自分の老けようを考えると今はどうなっているのかわからないな、とも思った。

「いや、そこはユキコちゃん、馬鹿みたいなってとこは否定してくんないとさ」

 ツルタはそう言われて少しだけ笑いを漏らしてしまうと、松木は、はぁ〜、と何の感情か読み取り難いため息を付いた。同時にツルタは、自分の口調が、久しぶりだというのにまるで気兼ねなく話をできる相手とのそれのように自然となっていることに気付き、それが不思議な感覚だと思った。昔のように、退屈なりの楽しさを感じられるよく言えば平和こそ幸福といった、鳩の集まりのような起伏のない大学生活を過ごしていたときのように。
 ツルタと松木間ではもちろん、大学時代の同じクラスで仲が良かった十人前後の男女の中では、当時から今まで、よくある大学生特有の気の持たせ合いのようなことは何故か一切起こることはなかった。その内容といえば時々飲み会を開いたり、近場の温泉地にみんなで遊びに行ったり、普段は校内のいつものベンチを拠点としてそこに出入りしながら出席表やノートの補い合いをした。誰にもなんとも思われない大学生の模範的な過ごし方だった。それはそれぞれがクラスよりもサークルやバイトに力を入れていたからだったからなのかもしれない。当時ツルタはサークルには入らずに長く続けていたCD屋のバイト先に彼氏がいたし、松木もテニスサークルで確か彼女がいた。松木はそれから社会人になってすぐに地方転勤で行った先で大学時代とは別の女性と結婚をし、その数年後関東に戻り、今は都内で妻と子供と暮らしていると聞いていたと思った。

 電話口の後ろの音もざわついていないので、ツルタはどこかの繁華街からの電話でもなさそうだということがひとまずわかった。

「それで、どうしたの?」

 先ほどより軟化した口調でツルタは聞くと、ちょっとさ、ユキコちゃんに聞いて欲しいことがあって電話したんだけど、と松木は一転して深刻とも取れるような堅い声色でそう切り出した。夜の香りが流れたので、外を見渡しながらツルタは聞いた。

「え、私に?」

「うん。実はさっきまで、中学の男メンバーで集まって、今さっき解散したんだけどさ」

 中学の男メンバー、と聞いて、ツルタは、はぁ、と電話越しで苦笑いを浮かべた。中学の男メンバー、というのは、恐らくあの人たちだろう、というのは聞かなくてもツルタには大体分かる気がした。当分会ってはいないが、少し前まではツルタも全員で三十人ほどいた中学校時代の主に飲み会に出席していた人たちのメッセージグループに入っており、その男メンバー、というのは、ツルタが知る限りだと中学時代から松木と仲の良かった人や、それ以降に親しくなった人の六、七人くらいのグループだった。嫌悪感が走るのは、その男メンバーたちの素行が、歳を経るごとに厄介になっていったのを見せ付けられていたからだ。大人になるにつれて、一人ずつその中身がすっかり変わっていく中、彼らは、元々はそこまで出しゃばらないタイプだった人が多く集まっていたように思う。そのグループでも中心的な人物だった松木も、地方転勤から関東に戻った後、驚いたことに、今度は飲み会やイベントごとで全体を取りまとめる、というか正しくはそういうのを取りまとめ”たがる”人に、二度目の変化をした。その後ツルタがメッセージグループから離脱するきっかけになったのが、いつからか、松木たちの内輪飲みの、どこかホテルのバーかクラブかに行った際の写真や動画などをメッセージグループにアップしては、他のメンバーへの迷惑を顧みずにスマートフォン上で深夜まで騒ぎ続けることだった。それが二、三ヶ月に一度の頻度で、振り返れば二年かそれ以上は続いていたように思う。ツルタはそれに対して、夜の小説の作業中に苛立つような通知が来て迷惑を通り越してもう他人のように思えたので、多少後ろめたさはあったものの離脱していた。中にはデイや、サクラもまだ入っていたが、少なからずツルタと同じように離脱する人も他にいたのだ。まだ、あれを続けているのだろうか、と煩わしさを体内から出すように言葉が出掛けたが、いやいや聞いても面倒なだけだ、と電話越しでツルタはぶるぶると頭を振った。

 それでも松木については、まだ付き合える人だとは思っていたけれども。そういう悪ふざけは松木の周りが中心になってやっていたし、以前から大学の飲み会でも場が熟して周りが酒の勢いの面倒な悪のりをし始めるのを、制止してとりあえず笑いにするような役回りだったのを、ツルタは知っていた。

「今もまだ、よく遊んでるんだね」
「そうだね、変わらず定期的には集まってるよ。ユキコちゃんからしたら懐かしいでしょ?」
「まぁねぇ」
「…そのことで、ユキコちゃんに、相談事があって電話したんだ」
「中学のメンバーのことについてってこと?」

 ツルタは思いがけずでかめのボリュームでそう言ってしまったので、隣人などに聞こえてしまうのが気になって部屋に入ってそうっと網戸を閉めた。

「うん、そう。さすがユキコちゃん、飲み込みが早いね」
 何それ、とつぶやきながらツルタは頭の裏で、松木がメッセージグループからツルタが離脱したことについて触れてこないことに内心胸を撫で下ろしていた。

「え、ってか、そもそも久しぶりに話す私に相談するもんなの?」
「うん、まぁ、ユキコちゃんだったら知ってる人のことだし、と思って」
「どういうこと?家族とかにも話せないの?」
「そうだね。家族だと、変に違う軸で話がこじれそうで。相談というか、聞いてもらうだけでも有難いんだけど」

 ツルタは話も読めずに全く落とし所も浮かばず、相談、と聞いて、再び昔の記憶が頭に通り過ぎた。ツルタが、大学時代に彼氏と彼氏の女友達の距離の近さのことで悩んでいたときや、新卒で入った職場で一つも自分らしさを取り入れられず窒息しそうになっていた頃など、時折飲み会で席が偶然隣り合ったりすれば松木に聞いてもらい、比較的楽観的な松木が適当に相手方を非難したりして笑わせてもらっていたこともあったな、という懐かしい記憶だった。

「俺、あのメンツ以外とは今もうそんな親しくないし、ユキコちゃんは付き合い長いからなと思って」
「そうなの?まぁけど、私も別にそんなに松木と近かったわけじゃないけど」

 一応はっきりとツルタがそう反駁したが、松木は構わず、いや、ほんとお願いなんだ、と食い下がってきたので、ツルタは断りようがなくなってしまい、本当に聞くだけで上手く答えられなくてもいいのならいいけど、とツルタは応えた。そういえば前にデイに会ったときに、松木や松木の周りのメンツを「あいつらはバカだよ」と吐いていたが、仲がよくても悪くてもよくそう表現することもあったな、とこんな時にそんな記憶が出てきてうっすら笑いを誘った。二年前にあったときは実際にもう付き合わなくなってきたと言っていたけれども。
 にしても、知る限り基本的に悩みに陥ったりするタイプではない松木が、何をそんなに悩んでいるのだろうか、とツルタは気になりもした。松木は、本当に自分は救いを得たのか、と思わず声を漏らすような勢いで、マジでありがとう!と、何度もツルタに擦りつけるように言った。

「あ、だけど、金銭的な相談とか何かに加入するとかは、申し訳ないけど受けられないからね」
「全然、そういうのではないから大丈夫だよ」
「そっか、それなら。それで〜?」
「あぁ、あのさ、今俺品川にいるんだけど、ユキコちゃんちって品川から結構近かったよね?」
 え、うん、と言いながらツルタは再度、頭に大きなクエスチョンマークが浮かんだ。
「静かだから、家かどこかかと思ってた。近いといえば近いけど…」
「あぁここ、駅の中の奥まったトイレの近くだからあんま人来なくてさ。これからユキコちゃんの最寄駅まで行っちゃだめかな?十五分くらいで着くし」
「え、今日?」
「うん、迷惑なのはわかってるんだけど、一時間くらい時間もらえないかなぁ?俺週末は家族のことで家出れないし、平日は結構残業も多いから空いてる時間があんまなくて」
「えーっ…でも、もうお風呂入っちゃったよ…」
「あはは、ユキコちゃんはすっぴんでも綺麗だから、問題ないよ、こっちは何も気にしないよ」
 そういうことじゃなくて、と言う代わりにツルタは、スマートフォンを持つ手の人差し指で画面を数回叩いたが、まぁ一時には寝れればいいし、松木がこちらに来る時間を含めても一時間くらいなら平気か、と思い直した。
「電車とか平気なの?」
「あ〜、最悪タクシーでも平気だし気にしないで」
「じゃあ、駅前の公園で話すんでいい?」
「うん、本当ありがと。恩に着るよ」
「じゃあ着く時間わかったら教えてね。って言っても番号しか知らないんだっけ。じゃあショートメッセージで」
「オッケー、すぐ向かうわ」

 ツルタは電話を切り、少しの間呆然としたあと、とりあえず駅前に出れる格好にとデニムとスウェットに着替えて、それから一服をした。ぼうっとキッチンの出窓の桟に積もった埃を眺めているうちに、そういえばどうして松木はツルタの最寄駅を知っていたのだろう、と疑問に思ったが、引っ越ししたことを知っている、デイや、大学の女友達から人伝てに聞いたんだろうな、と当たり前に答えを出した。
 ぼんやりした中で立ち尽くすツルタと、その脱衣所のように生暖かな夜は、そのときから一ミリずつゆっくりとうずを描くように回転を為始めていた。

「独身記念日」(12) 終わり

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