クリスマスにウクライナの「第九」
(約1800字)
昨年の暮れ、クラシックコンサートに出向いた。地元のホールにウクライナ国立フィルハーモニー交響楽団が来てくれて、ベートーヴェン「第九(合唱付き)」のほかに、ドヴォルザーク「新世界より」を演奏してくれるのだから、大喜びである。
特にクラシックファンというわけではなく、コンサートで聴くのはかなり久しぶりだ。
昨年秋から、遠方の両方の親(夫側と自分側)の介護が一度に本格化してきて、旅行などの遠出がしづらくなっていたので、その日に何も起きないことを願いつつチケットを買った。
数日前に雪が降り、当日も雪日和の寒さだったが、満席のようだった。
時間になり、ステージに楽団員が入場。ウクライナの方々って、ハッとするほど見目麗しい方がおられるが、ここにも何人もいらっしゃった。
つづいて指揮者の登場。本公演のポスターに、長髪をお団子にまとめた小柄な指揮者のシルエットがあり、どんな人だろうと思っていたが、この日は短い髪になっていた。
衣装はタキシードではなく、ソフトでラフなプルオーバー。ウクライナのゼレンスキー大統領が常にTシャツであるように、アメリカのGAFAトップがビジネスカジュアルを着るように、今どきの才ある人の雰囲気をまとっていた。
演奏が始まると、きびきびとした小気味よい指揮からも、新時代の実力派との印象を受けた。パンフレットには、1994年キーウ生まれのアントニー・ケドロヴスキー氏と書かれている。
第一部では、ドヴォルザークの「新世界より」でおなじみの交響曲第9番が演奏された。こちらもコンサートタイトルのとおり「第九」だったのだ。
パンフレットにはドヴォルザークの紹介から始まり、第1~4楽章すべての解説と聴きどころを端的にまとめてあり、聴くまえに目を通しておいたので、素人ながら深く味わうことができた。
ドヴォルザークは50歳でニューヨークの音楽学院院長に招かれ、1892年にチェコからアメリカに移住したそうだ。ホームシックにもかかり、祖国チェコの要素が曲の中に盛り込まれているという。「新世界より」が変化に富む印象を持つのは、アメリカ、ヨーロッパ、チェコのボヘミア音楽の融合であることが関係しているようだ。
一番有名な箇所の一節で、小学校で習った「遠き山に日は落ちて」の歌詞がダブってしまいうまく集中できなかったが、習ったからこそ知っていたのだから、まあ良いか。
ホールに響く生の管弦楽の音は心地よかった。同じ空間の空気を震わせて我が耳に届いたかと思うと感慨深い。
休憩を経て、第二部はベートーヴェンの「第九」となる。一番有名な合唱があるのは第4楽章だが、それまでの1~3楽章も部分的に聞き覚えがあった。なかでも第3楽章は、パンフレットの解説に「ベートーヴェンの交響曲中、最も美しい楽章と称えられる」とあり、そのためなのか暖房が気持ちよかったのか、うとうとしてしまった。
第4楽章の前に合唱団が入場してきた。ホールの名を冠した合唱団の団員は県内からの公募らしい。学生時代も合唱部だったかと思わせるオーラを放っている。
ソプラノとアルトの女性歌手、テノールとバリトンの男性歌手も舞台前方に華々しく登場された。
オーケストラだけの生音とシンフォニーもよいが、独唱と合唱が加わることで、人の持つ圧倒的な力まで感じられる。
演奏終了後のカーテンコールの後半では、歌手ふたりがウクライナの国旗を掲げて静かに立った。言葉がないのがいい。
観客はひと際大きな拍手を長きにわたり響かせていた。
このオーケストラは2005年以降、2年ごとに来日して日本各地で公演をしてきたらしい。コロナ禍で途絶えたので2019年以来4年ぶりだった。
この日は東京や東北でもウクライナの国立歌劇団によるコンサートやバレエが開かれていた。日曜日のクリスマスに、苦境に立つウクライナの伝統的文化を味わい、わずかでも支援できるなら、観る者にとっては、とりわけ有意義な時間となる。
帰路につくと、ホールの外には早くも着替え終わった団員が数人立ち、遠くを見上げていた。この日は雪雲が厚く、午後は北アルプスの山なみが隠れていたと思うが、もしかすると開演前の朝は、ウクライナの山々に似た姿を見せていたのかもしれない。
パンフレットの解説によれば、ベートーヴェンの「第九」には次の歌詞が含まれる。
世界各地の戦争が、早く平和的におわることを心から願う。