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JPOPマイベストリリック(1990年代)

今回は1990年代の楽曲について、個人的に刺さった歌詞をリストアップしました。極力既知の名曲は避けようとしたんですけど、名曲は歌詞の品質も伴って名曲なんだと、かえって思い知らされる結果となりました。


①「外国で飛行機が落ちました ニュースキャスターは嬉しそうに 乗客に日本人はいませんでした 僕は何を思えばいいんだろう」/THE YELLOW MONKEY 『JAM』(1996)

旅客機事故による不慮の死と、それを目の当たりにする僕の凡庸な生を対峙させる、不条理を描いた一節。不特定の誰かへの漠然とした同情の意と、一方では“日本人がいない”という地理的、選民的に生じる安堵感の矛盾。そしてそのどうしようもない葛藤の出口として浮上する“君”というプラトニックへの現実逃避。偶然に幸せなだけの僕を、誰かの不幸を鏡として相対化してみせる仕草は、ポピュラー音楽のナルシズムとしてありふれているけれど、戦争や災害といった真になす術のない不条理と対峙したとき、結局のところ誰もが、そこにいる“君”の手を取ることでしか、その場を生きながらえる方法がないという、理屈抜きのリアルをどうにも痛切に想像させられる一節。

②「いつもは指輪をはずしていたのに どうして昨日は腕も組んでいたの?」「時には誰かと比べたい 私の方が幸せだって!」/globe『Can't Stop Fallin' in Love』(1996)

平成の“不倫”がテーマの大人びたウィンターソング。道徳に反した密やかな関係性のなかで生じる“純情”と、そうした不適格な“幸せ”をわずかには肯定されたいという本性。『JR SKI SKI』のCMの実質的なミュージック・ビデオとしての作品世界の補完もあって、ゲレンデにおける一級品の冬物語が仕上がっている。ライフステージの曖昧化した令和では、こんなにはっきりした“不倫”ソングは成立し得ないというか、“子供”と“大人”の境界が社会的に隔てられていた平成だからこそ、明確に楽曲が“大人っぽさ”を纏い得たのかなと、ノスタルジックな平成美を感じる。

③「三角の目をした羽ある天使が 恋の知らせを聞いて 右腕に止まって目配せをして 疲れてるんならやめれば?」/aiko『花火』(1999)

“花火”ソングの歌詞としては、常識では考えられない跳躍幅。夕暮れ時、花火大会を控えた心象の高鳴りを、ありふれた情景・心情描写ではなく、“天使”というメタファーで描き切ってしまう筆力。写実的な表現よりも、キューピッドの細かやで意地の悪いモーションの方がかえって、期待と切なさの同居する心象の機敏を描き出せてる気がして、その比喩の効力みたいなものに驚愕してしまう。普通に考えて、こんなに寄り道した表現をBメロに置いてしまったら、サビで“夏の星座にぶら下がって”には、真っ当に帰着できないはずなので、これだけの逸脱をコントロールできていることが本当に凄い。

④「ズルしても真面目にも生きていける気がしたよ」/スピッツ『チェリー』(1996)

“肯定”の仕方が他のアーティストとは明らかに違うというか、普通は二択であるはずの“ズル”と“真面目”にあえて併存を認めることで、時として矛盾的な人間のいやらしい部分をも、暗に肯定してくれる感じがする。シーンによって、柔らかさと棘の併存する人生の二面性、いや多面性を、飾ったり穿ったりせず、平熱で指摘してくれることに、例外なく多くの人が救われてきたはず。スピッツに関してはそれだけで企画を組まなきゃいけないくらい頭抜けているけれど、ここではあえて、有名ゆえにかえって見過ごされてそうなチェリーの一節を取り上げた。

⑤「たとえば君が傷ついて挫けそうになった時は 必ず僕がそばにいて支えてあげるよその肩を」/杉本竜一『believe』(1998)

端的に“僕がそばにいるよ”と歌うのではなく、たとえば…から始める、仮定法の妙。在原業平の短歌、“世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし”や、米米CLUBの“たとえば君がいるだけで…”とかもそうだけど、仮想性の導入によって、ありふれたモチーフや語彙の中に、ささやかな浮力が生じる瞬間が個人的な趣向に適っている。合唱曲ってほんとに語彙が限られていて、基本的には似通った正解を歌うゲーム性がある訳だけど、Bメロで“世界中”や“地球”が出てくるスケール感も含めて、本曲はそういう制約下において頭ひとつ抜けた作品という感じがする。

⑥「心の中のベストテン第一位はこんな曲だった」/小沢健二『今夜はブギー・バック』(1994)

ヒップホップとJPOPの架け橋として今なお歌い継がれる伝説的な一曲。権威的で伝統的なベストテンに対抗するような“心の中の”、つまり自分だけのベストテンを掲揚するアンダーグラウンドな感覚と、一方でそこに宿る大衆広告的なポップネス。楽曲の一番盛り上がるサビ前にこのフレーズが置かれることで、理屈抜きの高揚感と称揚感が見せつけられる。ヒップホップであり、文学であり、大衆広告であり、個人的なアンセムでもあり得るような、極めてハイセンスなリリック。

⑦「ママの靴で早く走れなかった 泣かない私になった日も」/YEN TOWN BAND 『Swallowtail Butterfly 〜あいのうた〜』(1996)

1990年代にこのリリックは、端的に早いなと思った。生きにくさのままに溢れる声が、適切な文法を守れないまま漏れ出る感じって、相対性理論や大森靖子後の、令和っぽいリリックな感じがするというか。“ママ”という少女目線や、“泣かない”を成長と感じる幼少感覚が、一方で電子的、バラード的な“子供っぽくない”サウンドと掛け合わされることで、成長過程につまづく主人公の、転倒と起立を繰り返す不器用な健気さが、痛切に伝わってくる。

⑧「あの娘 ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう」/岡村靖幸『あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう』(1990)

名盤“家庭教師”収録の青春ソング。流れるように繰り出される青春の高揚感を、テンプレを逸脱し切った語彙で描き切る疾走感。走り書きの極地というか、ほと走る衝動のままに綴られたリリックからは、ロジカルでは到達できない自由度と奔放さが伝わってくる。まだ青春の高まりを経験し切っていない、“どんな顔するだろう”という未来に向かっての想像力を、懐古的な視点ではなくリアルタイムであるかのように描いている瞬間性が、本当に凄いなと。

⑨「向かいのホーム 路地裏の窓 こんなとこにいるはずもないのに」/山崎まさよし『One more time,One more chance』(1997)

生活の断片を列挙し、君の欠片を探す。何を代入したって美しいフォーマットというか、形式として本当に完成されたリリックだなと感じる。“いるはずもない”場所として挿入される“向かいのホーム”や“路地裏の窓”の絶妙な繊細さ。こうした描写が、未練気味で不甲斐ない主人公の心象とサイズ的に親和していて、琴線に絶妙な言葉選びだなと感じる。ナイツの塙が漫才のシステムについて、“誰がやっても面白い”枠組みに、“この人だから面白い”がかけ合わさると最強みたいなことを言ってたけど、本曲のシステムと個性の掛け合わせからは、まさしくその手の完成度を感じる。

⑩「流れる景色を必ず毎晩見ている 家に帰ったらひたすら眠るだけだから」/H Jungle with t『WOW WAR TONIGHT~時には起こせよムーヴメント~』(1995)

結局似たような語彙で競っている限り、やっぱり“誰”が歌うかがすごく大事になってくるわけで。言葉を武器にする芸人、とりわけ一時代を牽引したダウンタウンの発話には、良くも悪くも日本人に馴染みの時代性が刻まれている。小室哲哉×ダウンタウンという“平成”の遺産が、日夜労働に勤しむ“平成”サラリーマンに送ったエールからは、令和からすれば旧来的な、ノスタルジックなエネルギーが残り香のように残存している。時代の変遷によってすべてが負の遺産へと転換しつつあるなかで、盛者必衰の栄華として、本曲の放つ哀愁には特殊な魅力が溢れてる気がする。

以上、全て生前の曲ですが、感じたことを綴ってみました。ノスタルジックな“平成”の温度感が様々に伝わってきて、俯瞰的で冷笑気味な“令和”とは全く異なる時代性を漠然と感受する結果となりました。最後までお読みいただきありがとうございました!

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