Audible ホリエモン やりきる力を聞いて 川の流れの例え話について思ったこと
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Audible で聞きました。
ホリエモンさんの行動を促す言葉はインパクトがありました。
読むより聴く読書のほうが1.2 倍くらいパンチ力が増すのではないでしょうか。
はじめにの部分を聞いた時、
一冊読み終えたかと勘違いしました。
そういったインパクトのある話が、
ホリエモンさんの本のメインの事柄ではあると思いますが、
ここでは、少し静的な部分といいますか、
人生観を川の流れに例えていた話をピックアップしました。
ホリエモンさんの本を読んで、なぜ、
川の流れの例え話をピックアップするかといいますと、
● ブッダも人生は川のようなものだと諭していたらしい
● 地歌三味線の歌でも遊女の人生を川の流れに例えている
● 美空ひばりさんも川の流れのように、と歌っている
からです。
人生を川の流れに例えるのは、いろんなところで聞かれる例え方であり、受け入れやすいものであるとおもいます。
ですが、ブッダも人生を川の流れに例えて、ホリエモンさんも人生を川の流れに例えていたとなると、その共通項が意外な感じがしたのでした。
ホリエモンさんのやりきる力の本の中では、
桃太郎のばあさんになれ、という話で
川の流れをつかった例え話が出てきました。
例えが面白いなと思いましたが、その意味は
川を流れてくる桃をばあさんがナタでぶった切ったから、
桃太郎がプロデュースされたんだということでした。
気になるものをみつけたら割って開いてみようという話でした。
これを読んで、ホリエモンさんが書いていた別の川の流れを使った例え話を思い出しました。
それはホリエモンさんが別の著書の中で書いていた若い頃から思っている人生観についての話になります。
どんな人生観かというと、
自分自身が川の流れにのってどんぶらこと流されていて、
そうやって流されていく中で、何かが近づいてきて、それがおいしそうとか、面白そうだと思ったら、泳いで近づいていき、手をのばしてひろってみるんだ、
という内容でした。
この話を読んで、自分自身が川に流されている、というところが印象に残りました。
自分からどんどん進んでいっているというイメージではなく、川の流れに流されているということが意外におもわれたのでした。
それ以前にきいた(たぶん草薙龍瞬さんのAudibleで)、ブッダの教えの本の中でも、
人生とは川の流れのようなものだと、いわれていました。
ホリエモンさんは、先進性やIT時代の寵児といわれる人で、そのような人が
ブッダと同じように人生を川の流れに例えていることに意外性を感じました。
既存の常識の破壊といった思考をなすホリエモンさんの心の底辺に、
生きにくい人生を受け入れる、諦念やあきらめといったようなブッダの教えのようなものが、あるのかなと、私は思ったのでした。
そして、そんな二つのことが心の中に存在するのであれば、とても広く大きな、ダブルサイズの心であるとイメージされたのでした。
間違っているのかもしれませんが、
ブッダの教えで人生を川の流れに例えるときは、
どこか諦念のような、あきらめて受容するという心構えがあるものだと私は思っています。
私は、
人生を川に例えることは、
人生とは憂いを帯びているものだ、
という前提がある、
と理解するようになっていたことにあらためて気がつきました。
いつからそう理解するようになったのかはわかりません。
趣味の三味線の影響もあるのかもしれません。
地歌という、江戸時代の盲目の人たちが作った三味線音楽なのですが、
その、地歌には、
遊女の人生を題材にした曲があり、
その歌詞は、先の人生を思ったときの憂いが歌われるものがいくつかあります。
遊廓に入る前の遊女は、舟で川を移動して生活していたそうで、そのことから、
川竹の身、流れ渡りの人生と表現されるのが
遊女のくらしであり、
川の流れにながされて生きる、憂き人生として表わされているのです。
私がホリエモンさんの心をダブルサイズの大きさと感じたのは、常識を破壊する先進性と人生に対する諦念・憂き思いの心が存在しているのだと、とらえたからでした。
2つの相対するものを持ち合わせているととらえたのです。
たしかにホリエモンさんは、
自分は川に流されている、と言っていますし、
それは、全てが自分の意になるものではないという意味で川に流されている、と言っていると、
とらえることもできると思います。
ただ、あらためて考え直してみると、
ホリエモンさんが
人生を川の流れに例えたとき、
私が思うような、諦念や、憂いを
本当に含んでいるのかどうかはわからなくなってきました。
そして、たぶん含んでないだろうな、と思えてきました。
といいますのは、
川の流れの例えが、常にあきらめ感を全体に漂わせているわけではないという、他の例にもふれたからでした。
それは、多くの人がご存じの
美空ひばりさんの川の流れのように、
の歌でした。
この機会に、
歌詞を検索して、5、6回口に出して反復してみました。
ああ、川の流れのように
穏やかにこの身をまかせていたい
ゆるやかにいくつも時代は過ぎて
とめどなく空は黄昏に染まる
ぬかるんだ道もいつか晴れる日が来て
雪解けの日を待ちながら
川の流れの青いせせらぎを聞きながら
ああ、川の流れのように
穏やかにこの身をまかせていたい
この歌詞を繰り返し口ずさんでみると、
諦念とか、悲しいフィーリングは感じられませんでした。
むしろ、ヒーリング効果を感じました。
この歌詞の中で、私がピックアップしたいと思うのは、穏やかにこの身をまかせていたい、
という表現です。
川の流れに穏やかに身を任せるとは、
一体どういう選択を指しているのかなと、思うのです。
川の流れに身を任せると言った時、
私は激流下りのようなイメージを持ってしまうのです。
何かそういうイメージを持たないと、
人生が動き出さないかのような観念があるようです。
といいますか、
わたしはというと、
日々、自分が川の流れに流されているというイメージはもっていません。
ですので、私は、
ある一点に自分が固定されているようなイメージを持っていることになるのでしょうか。
また、流れを意識していないので、
目のまえでおきていることにとらわれてしまう度合いが大きくなるのかもしれません。
または、何かの流れに乗っていない人生をおくっているということなのかもしれません。
ノってない、ということでしょうか。
人生にノリがないのかもしれません。
何かにノっている人には、
人生は川の流れとしてとらえられるのかもしれません。
ノってなくて、川の岸辺に座っていたり、
中洲に取り残されているのなら、
人生を川の流れに例えるイメージも浮かばないのかもしれない、ヤバいな、
などと、思いました。
つまり逆にいうと、
川の流れに流されていると思うことが、
美空ひばりさんが歌うように、
その人生という川から、
せせらぎの音が聞こえてくることにつながるのかもしれませんし、
または、
ホリエモンさんが行動しろ、というのを
とりいれてみるなら、
流れに一歩踏みだして、
川に流されてみることで、
せせらぎの音が聞こえてくるということなのだろうか、
などと思いました。
そして、
どうやって川の流れに乗ろうかと思った時、
美空ひばりさんの歌で言うなら、
穏やかに身を任せたいのだと、
穏やかに身を任せるとはどういった選択なのかな?
そうですね、今思いついたのは、
過度の期待やまたは、過度のあきらめも持たず、
中庸の心のようなイメージでしょうか。
でも、そうするとまた、どこか一歩ひいたような冷静さのようなものが、持ち出されています。
人生は憂いを帯びたもの、あきらめて受け入れるものという、ちよっと悲しいフィーリングからは前進したのかもしれませんが。
ホリエモンさんも刑務所に収監された時、
自分が落ちていっているという様子を俯瞰的に眺めていたというようなことを話されていました。
ですので、どこかそういった冷静な面はあるよということなのでしょう。
結局、ここまで来て私が思ったことは、
人生を川の流れに例える時の受け取りようは、
時代背景があるということではないか、
ということでした。
ブッダの時代や、遊女の時代は、
同じように人生を川の流れに例えたとしても、
そこには諦め感や人生の憂いが、
少し強く出る時代であったのかと思います。
そして美空ひばりさんの川の流れのようにの歌詞を口ずさんだ時には、私はヒーリング効果を感じました。
それは、昭和が懐かしさを持って語られる時のようなフィーリングと似ているのかもしれません。
Always 3丁目の夕陽的な、昭和のおおらかさ感が
美空ひばりさんの歌にはあるということなのかもしれません。
時代が、遊女のころのような、悲哀を感じさせるようなものではなくなってきた、ということでしょうか。
時代がある程度穏やかになり、
流れに身を任せば、雪もとけて晴れの日がまたやってきて、
川のせせらぎが聞こえてくる、と思えるような、そういった穏やかで、平和が約束されたような時代になったということなのかもしれません。
そしてホリエモンさんが、
人生を川の流れに例えて、また、
没頭しろ、とか、はまれ、
とか言うところには、
IT社会のような時代を迎え、
その恩恵をうけるかたちで、
個人個人が、自分が行動することによって、
もっと楽しく生きていける時代になったんだよ、と言うことを伝えている、ということなのかもしれません。
昭和の時代に川の流れで表現された人生は、
おおらかで、心穏やかになるフィーリングがありました。
そして、平成、令和となった時に、
川の流れで表現される人生は、
穏やかさを通り越して、没頭、はまれ、
これからは遊ぶことが仕事だ、というところまできたのだ、
ということなのでしょう。
ですので、川の流れときいて、
憂いを帯びている場合じゃねえ!
諦めとか、諦念とか言ってる場合じゃねえ!
といったことでしょう。
ブッダを否定しているわけではなく、
ブッダの教えだって、Audible で草薙龍瞬氏の朗読で聞いて学ぶことができる、
遊女だって、仮にスマホ1台持てば、
全く違った人生だって選ぶことができる、
そんな世の中なんだよ!
という時代の川の流れに、ホリエモンさんはどんぶらこと流されている、というのだから、
諦念とか、憂いにどっぷりひたったりしないで、
そんなのさっさと捨てろ!ということだと
いえるのかもしれません。
ですので、私の、人生を表す川の流れの理解は、
ある意味、ブッダや遊女の時代の理解で止まっているということで、
だからこそ、
美空ひばりさんの歌の歌詞に癒やされ、
そして、ホリエモンさんの著作の内容に対して、
強いインパクトを感じるのかと思いました。