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地歌 里の暁 CDききました
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このようなCDでした。
邦楽ジャーナルという雑誌の通販で購入し、
ポイントもつきました。
三味線の方は、菊原光治というかたで、
日本でも有数の男性地歌演奏家と解説に書いてありました。
わたしは、東京の国立劇場に行ってみたときに、この方の演奏と歌をお聞きしたことがありました。
その時の印象は ”パッション” でした。
CD の里の暁の一部分です。
歌詞の始まりの、あずさ弓ってなんだろうって思いますね。
解説書より曲の説明
京風手事物(てごともの)である。
江戸時代の文化文政の頃、
京都で活躍した三絃名手、
松浦検校(?〜1822)作曲。
松浦検校は京風手事物の開拓者。
箏の手をつけたのは浦崎検校。
箏組歌を整理し刊行した
安村検校 → 浦崎検校 → 八重崎検校
と京物箏手付けが受け継がれて、八重崎検校で、京物箏手付けが確固たるものとなった。
作詞は、
三井家五代当主・三井次郎右衛門高英
所縁の人の追善の曲として作ったと伝えられる。
古い歌をうまく織り込んでいる。
橘の薫る初夏の夕暮れに、
あの世とこの世を飛び交うホトトギスが、
一声鳴いて、彼方に飛んで行く、
そして、
蛍の光をみて、亡き人の魂を呼び戻すという、
中国の故事を思い浮かべる。
どこかで焚く、蚊遣り火の煙の行方を追って、
亡き人を偲ぶ思いにかられる。
という、様子を歌っているので、
追善曲としてもよく演奏される。
「里の暁」の歌詞は、作曲者の松浦検校没後、
14年経った天保7(1836年)出版の「新増大成糸の節」という歌本に出てくる。
解説
久保田 敏子
(京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター教授)
作詞の三井次郎右衛門高英氏の高英は
「たかひで」と読むそうです。
後楽園とも四明居(しめいきよ)
とも号した方だそうです。俳句もよまれてたんですね。
上記の解説は歌詞を理解する上で大変ありがたいです。
歌詞をみるだけでは、そのような内容は、
一切といってわからないわたしだからです。
所縁の人の追善の曲として作ったと伝えられる、とのことですが、それは「歌詞的に」ということなんでしょうかね。
作曲の方も、追善を意識してたんでしょうかね。
私が学生の頃いた、古いジャズを演奏するサークルでは、葬式用の曲がありました。
埋葬する墓地まで皆で練り歩く間、ブラスバンドが物悲しい感じの曲を吹きます。そして、墓地からの帰り道は陽気な感じの曲を演奏してみんなで踊りながら帰る、
という外国の文化・習慣の曲でした。
さて、里の暁にもどります。
「追善(ついぜん)」という言葉を改めて
検索してみました。
仏教用語だと分かりました。
亡くなった人のために何かしらの仏事を行うことだそうです。
死者の悪行を軽減し、あるいは除去するためだそうです。
特に中陰(ちゅういん)中にあっては、亡者のために追善を営むことが必要、とされている。
追善の法会(ほうえ)は、一般に七七日(しちしちにち)の中陰をはじめとして、百箇日、一周忌、三回忌、七回忌ないし百回忌などが催される、となっています。
そういわれてみると、
今でも、一周忌などの法事はあるので、そういった時に演奏されたのかなとおもいました。
墓地の行き帰りにブラスバンドでドカドカやるのもいいてすが、
法事に行ったら、お寺で、
三味線、琴、尺八、歌、の演奏がついてくるのもいいかもしれません。
この歌の歌詞は、
初夏のころを歌っていると解説にありましたので、
夏の法事に合わせて、曲をつくって演奏したんでしょうかね。
春頃から準備して、三絃パート、箏パート、歌詞作成と、チームワークでつくって、それから合奏練習して、
と推測しますが…
暑くなってきてから、さっと、作ったのかもしれませんね。プロだから。
里の暁のCD を聞いたことと、
曲の歌詞解説から思ったことでした。