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Being a Synesthete as a peace maker.
共感覚に関する本をいろいろと読んで、共感覚や共感覚者を取り巻く環境が、時代によって大きく変わってきた歴史を理解することができた。
「文字に色が見える」「人に色が見える」「風景に音を感じる」「味に形を感じる」など、五感を超越した感覚、「共感覚」は、どこまでも(本人にとっては現実の)主観的事実の報告が主となって解明されてきた。
時代によっては、共感覚者は、狂気とみなされ迫害の対象となったり、共感覚の種類によっては(突然イメージが浮遊する、など)薬物の摂取時と似ているので、薬物摂取しているんだろうと勘ぐりをいれられたり、大嘘付きのように扱われた。
反対に(こちらの方が多いことを願う)、神秘的、芸術的、と賞賛され、非共感覚者からの羨望の眼差しを受けたりしてもきた。ほんの100年前には、共感覚的な芸術表現が人々に受け入れられ、共感覚を持つ芸術家はかなり自由に共感覚を表現する機会に恵まれていたらしい。
共感覚的表現は、万葉集や聖書などかなり昔の文献にも散見される(というより現代よりはるかに共感覚的表現が多いようだ)ことから、共感覚自体は有史から、人類とともにあるのは疑いがなさそうだ。
学問の分野では、「共感覚」は数十年単位での流行りのテーマで、出てきては消え、消えては再発掘され、を繰り返してきたらしい。
100年前に一度途絶えた共感覚研究だが、1980年代〜、心理学や脳神経学などの学問分野で再度脚光を浴びるようになり、オランダ、米国、イギリス、スペイン、カナダなど、北半球を中心に活発に研究が進められているらしい。
学問研究が盛んになった背景には、共感覚者であることを自覚し声をあげる人が増えてきたこと、fMRIなどの技術の進展で、共感覚者の主観的事実が、実際に脳が活発に動くところと一致したことで、客観的事実でもあることが科学的に証明され始めたことが挙げられる。
科学的には、「共感覚」は、脳の神経の交錯、とか、神経細胞間で化学物質の抑制作用が起きない結果生じる、と説明されている。
ただし、客観的事実にのみ重きを置く学術の在り方に疑問を呈する共感覚者は少なくない。
一般の人も目にするアニメやドラマでモチーフに取り上げられたり、たくさんの書籍が出回るようになっている時代のようだ。「共感覚者」を公表する著名人も増え、認知度が高まっている。いまは、「共感覚ルネッサンス」ともいえる時代なのだろう。
共感覚者あるある、のようだが、
1.産まれた時からの感覚なので、自分と他人が違う、と自覚していない
2.しかし、幼少期の早い段階で、自分の感覚で話すと、周りと話が通じないことを知り、恥ずかしく感じたり、悪いことだと思ったり、理解されようとすることを諦め、自分の内に秘めてしまう
3.成長する内に、何かのきっかけで、自分と他人の感覚か違うことを知り驚愕する
4.自分が病気なんじゃないか、どこかおかしいんじゃないか、と不安になり、さらに隠そうとする
5.別の共感覚者に出会ったり、共感覚の知見を得て、自分の感覚に「共感覚」と名前がついていることを知る
6.自分に対する悲壮的な見方を払拭し、共感覚的表現で自分を表現したり、別の共感覚者との繋がりを求めたり、共感覚の知見を広め、認知度を上げることに貢献したいと思う(認知度を上げることで、自分の共感覚を恥じている人に、恥じる必要はない、素晴らしい感覚だと伝えたい、や、共感覚に対する偏見をなくしたい、或いは、共感覚体験の素晴らしさを伝えたい)。反対に、共感覚を公表しない、ことを選択する共感覚者も少なくないようだ。
の、ある種のテンプレ通りの流れに私は乗っているみたいだ。
3ヶ月前、ひた隠しにしていた「音」の共感覚、今や私の大切なアイデンティティと変わった。
性被害サバイバー(私もその1人だ)や自閉症スペクトラム(私の父がそうだ)、LGBTQ(残念なことに友がいない。学生時代、女性が好きな女性から性的対象として好意を寄せてもらえたことが二度ある、そのとき、無知故に彼女の気持ちに誠実さを持って向き合えなかった自分を今も恥じている。6才になる娘は、ふわふわのスカートが大好きで、一人称は「僕」で、男の子にも女の子にも同じくらい興味を持っていて、「可愛くて、結婚したい(どうして、女の子は女の子と結婚しちゃいけないの?)」と話す。本来、それが、自然なんだと思う。)と、構造が似ているようにも感じる。
知識的な理解が充分社会に浸透していないだけの理由で、「社会的マイノリティ」の枠組みに落とし込まれ、(或いは、自分でも自分をその枠組みに入れてしまい)窮屈な思いをしなければならない人は少なくないのではないだろうか。
だから私は、自分の共感覚を公表していくことに決めた。
これは、「単に、私」のまま、自分の足で立っていよう、とする、試みだ。
「マジョリティ」、「普通」という窮屈な共同幻想が作り出す「社会的マイノリティ」という風潮に対する、私なりの、私らしい、静かな平和運動でもある。