人から聞こえる音について

人から聞こえる音は複雑だ。

いろいろな音が重なるし、揺らぐ。

分析が必要になる。

とてもいいサイトがあった。

私が人や文章から聞こえている(頭の中で響く、体の内側で感じる、気づく)音は、こんな感じだ。

音の大きさやテンポ、波形、透明度、時々音色、、人によって、場面によって、全く同じ、はほとんどなくて、「似ている」でカテゴライズされてるから、言葉にするのは本当に難しい。(いま、言語化するにはどうしたらいいのか、自分を観察してる最中だ)

けど、楽器の音色、ではなくて、このサイトみたいに、トーン、の方がしっくりくる。

甲高い音はうるさいし、耐えられない気持ちになる。

一方で、モノや風景は、「とん、とん、とん」や「ドーン!」、「シャラシャラシャラシャラ」「カシャカシャカシャカシャ」みたいに、音色、が多い気がする。単純だ。

絵画や写真は、単純なものと音色がたくさん重なって複雑なものがある。

人の音は、揺らがない音(パーソナリティ?)と常に揺らぐ音(感情?)があって、とても複雑だ。

全く同じ音のひと、は居ないと思う。私の頭の中では、人達は似ている音の人達でグルーピングされていて、低い音のグループ、高い音のグループ、速いテンポのグループ、遅いテンポのグループ、みたいに分かれている。名前という概念は、顔と音より下位の情報だ。

私から見ると、似た音の人達はすぐ仲良くなれる。だから、似た音の人同士を引き合わせて、「初めて会ったんじゃないみたい!」なんて話が盛り上がってるのを見ても、全然驚かない。

だって、2人は音が似てるから。話が合わないはずがない。

話してる内に、お互い、人生の早い段階で、近い人を闘病の末見送る体験を持っていることが分かって、出会って数時間しか経ってないのに、深いレベルで共感し合っているのを見て、「それで音が似たのか」と腑に落ちることもある。

逆に、全然音の違う人、どうしても交わらない人、同士は、何回会っても間柄としてはとても近くても、やっぱり仲良くならない。

音の行く先が違うから、音が重なるはずがない、関係性が発展しないのは、当然だろうなと思う。

ただ、その、平行線上の交わらない異なる種類の音に挟まれて、聞き続けるのは私にとっては楽しいものではない。緊張するし疲れてしまう。

人の音は、基本的にはあまり変わらないけど、久しぶりに会うとすごく変わっていることがある。

甲高い音で人を寄せ付けない感じの音だった人が、音のトーンが落ち着いて丸みを帯びた音になり、他者の音を受け付けて音の重なりを楽しむような感じになっていると、「え!音が変わってる!」とびっくりする。びっくりするし、ほっともする。何か、性格が変わるような体験があったんだろう、とか思う。

感情の音はとても微細だし複雑だ。揺らぎ続けるし、気にしすぎると身がもたないから、ある程度ボリュームを下げてるんだと思う。

でも時々、「え?!」って気づく音や、ボリュームをうまく下げれないときもある。(そういうときはヘトヘトになる)

たとえば、「攻撃」の音ひとつとっても、

攻撃+さげずみ、優位性、不安、、、

なのか

攻撃+防衛、不安、悲しみ、諦め、、、

なのかでは、音の印象は全然違う。

音の響きも、波形も、行く先も、全然違う。

前者の音は、外側に破裂するような波形で上から下へと抑えこむような暴力的な圧があるが、背景には、ちらちらと小さな不安の音がする。

後者の音は、膜をはった内側に刺すような高い音が反響し、下に沈んでいく感じがする。

本当に私だけなんだろうか。

みんなそういう音を聞いているけど、口に出さないだけで、とりたてて不思議でも特殊でもない現象なんじゃないか?敢えてなんとか言語化しようともがいている自分が時々滑稽にも思える。

とにかく、人の音は複雑だし、常に揺らぐから、理解が追いつかない。

理解がしたいから、分析したくなる。

私が混乱するのは、人から聞こえる音、と、その人の発言、の間に大きな隔たりがあるときだ。

「ごめん、自分が悪かった」

の発言から

苛立ち、悲しみ、諦め、ごまかし、防衛、

の音がするときや、

「すごく頑張ってきて、いまは何もかもがうまくいってる人生だ」

とあれこれエピソードを語ってくれる人から

今まで聞いたことがないくらいの

孤独感、寂しさ、悲しみ、諦め、孤立無縁感、絶望、守る、闘士、自己犠牲、献身、承認欲求、、、

など、正反対の音が聞こえてくると、「え?!」って、驚いてしまう。

こういう場合、私の対人理解では、言葉より、音が優先される。

「どうしてこの人は、自分を防衛する為に謝罪するんだろう。自分を理解しない他者への憤りを感じて、でもこれまでも似た場面があったから諦めてきて、それは悲しいけど、この場をごまかすために防衛的に謝罪してるんだろうか?」

とか

「何がこの人にここまで深い悲しみの音を持たせたんだろう。ひとりぼっちを体験して、孤独や孤立無援感を抱えながら諦めたり悲しんだりもしたけど、誰かを守る為に自己犠牲を払ってでも闘ってこられたんだろうか?」

聞こえてくる音を分析して仮説を立て推測したりして、考え込んでしまう。

あまりに悲しい音がした人は、離れてからも悲しくて、家に帰ってから号泣してしまった。

小さな子供がもっと小さな子供の手を引いて、口を一文字に結んで涙をこぼすまいと宙を睨みつけている子供のイメージが頭を離れなかった。

払拭しがたい強烈なイメージと、絶望感を伴う悲しみの音が私の中で反響して、辛かった。「どうして誰もこの子供を守ってくれないの?」と泣きに泣いた。頭では、そんな話してないのになあ、と分かってるんだけど、悲しみの音を聞くと、私もその悲しみの音になってしまって、どうにも感情が揺さぶられてしまう。

あまりに気になったから後日、別の知人に尋ねると、その人の母親が突然家を飛び出ていってしまうタイプで、その度に下のキョウダイを連れて迎えに行かなければならない、困難な幼少期を過ごしたことを教えてくれた。それを聞いて、やっと合点がいった。

自分が聞こえた音を元に立てた仮説を、相手に確かめることはほぼない。相手が言葉に出す以上のやりとりを、突然始めるのは、奇妙でぶしつけで失礼だと思うし、そもそもなんでこの音が聞こえてくるのか、この音が意味するものが何なのか、自分でもまだよく分かってない。

だけど、言わないけど、心の中では、その人の言葉より、人から聞こえる音の複雑さの方を優先して、相手の理解に役立てることはよくある。

海外のシナスタジアグループで、人に色が見えるタイプの方が、「その人本来の色が陰がでたり濁ると、何かあったのか落ち込んでるのか心配になる」とか「ずっと暗い色合いだった子の色がだんだん光を帯びてきたから、話しかけても大丈夫そうだなと思って話しかけると仲良くなれる」など、似たようなエピソードを見かけて、少しほっとした。

私も似ていて、相手の音の周りに柵が立っているときは、どのみち話しかけるのは難しいし、ある話題の音がぐいっと戻される感じのときや、音の通りが悪い感じのときは、その話題は出さない。相手はいまこの音を聞きたくないんだな、と思うからだ。

「あなたには嘘がつけませんね」

人から聞こえる音について、リアルな人間関係で話題に出すことはないんだけど、あまりにも音が透明で果てしなく音が通る人、に、人から聞こえる音についていろいろ聞かれたときに答えていたら、こう言われた。

どうなんだろう。

音の共感覚は、あくまで主観的事実であって、単なる心象に他ならないから、それが客観的な事実と一致するかまでは分からない。分からないし確かめようもない。

それに、仮に逐一確かめて、違いましたね、となっても、やっぱり私にとっては、「音」のほうがずっと私の直感と結びついていて、結局音の判断が優位に立つのは変わらないだろうから、はっきりさせる努力そのものに意味がないんじゃないだろうか。

私は、「嘘がつけないひと」なんだろうか。

「ひとの嘘を見抜けてしまうひと」なんだろうか。

分からない。

でも、相手にとって

「うそをつかなくてもいい人」

になりたいなあ、と思う。

ひとは、嘘をつく。

大抵は、「防衛」の音がセットだ。

「嘘をつくことで、何から自分を守りたいんだろう」

私はそう考え始めてしまう。

私から、自分を守りたいが為にうそをつく、そういう対象にはならずにすむよう、関係を築きたいなあ、と思っている。







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