『ぼくには数字が風景に見える』(ダニエル・タメット、講談社)から聴こえる音の話
共感覚についてもっと知見を得たくて、共感覚当事者によって書かれた文献を3冊ほど読んだ。
どの本も、音が全然違う。
私の一番お気に入りの音がする本は、
『ぼくには数字が風景に見える』(ダニエル・タメット、講談社)だ。
私がこの本を大好きになる一番の理由は、最初から最後まで一定のテンポ、大きすぎない音量、つぶのそろった音が等間隔で流れているからだ。
こういう音がする本には、嘘がない。
なんと表現すればいいのか。
自己肯定感の高さや、自分に対する率直な興味、少しの戸惑いと、人間存在そのものに対する愛情、科学的態度、他者への感謝、困難を受け入れて乗り越えようとする強さ、変化を受け入れる柔軟性、ユーモア、流れに身をまかせる大らかさというかゆるやかさ
そういった音が、本を読みながら、文章の内容を知識として理解するのとは別のところで、私の頭には響いている。
本を思いだそうとすると、文字情報としての内容より、この幾層にも重なった調和のとれた音が私の頭には蘇る。
私は、お気に入りのCDをかけて好きな音楽を聞くように、頭の中でその本の音を再生する。その音をよく聴き返しながら、その音の性質が、言葉に置き換えるとなんなのか、言語のもつ音と、どれが一番近いのか、照らし合わせながら、言葉で表出している。
頭の中には最初に、音があるのだ。
音があって、それにあった響きをもつ単語を私は探している。
音で思考しているのだろうか。
私にとって、こういう本への感想を、文章に書き落とし、言語で伝えるという作業は、なんというか、楽器演奏に近い。
文章を書くのは、演奏とかオーケストラの指揮者と似ている気がする。頭の中で流れている音楽を、できるだけ忠実に演奏したい。ピアノを演奏するときは楽譜を元にピアノを弾いて、楽譜を音にするけれど、頭の中に流れている音楽(記憶、思考)を文章にする作業は、ピアノを演奏するように、単語や文章を綴っていく、という感じだ。
最終的には、オーケストラの指揮者のように、ここで必要な音は、チェロじゃなくてバイオリンだよね、みたいな、そういう微妙な音の違いを表したいのだ。
言語は、私が、頭の中に流れる音楽を頭の外に取り出して、他者や外の世界と私を繋げてくれる、共通のツールだと思う。
この作業を限りなく正確にできるように、翻訳家を目指してもいる気もするし、作曲家、演奏者を目指しているような気もする。
この音の印象は、本を読んだあと何年たっても変わらない。何年か前に読んだ本を思い出そうとするときも、お気に入りのCDを探すように、お気に入りの音を探している。
あの本の音、題名も内容も忘れちゃったけど、ほんといい音だったよねー、この音を思い出すと、ほんとほっとする、また聴こ。
お気に入りの本を思い出すときは、そんな感じだ。
私は多読タイプで、同じ本を二度読むことはほとんどない。
何度も繰り返し読んだら、音の印象は変わるのかもしれない。
そう考えてみると、大学院で研究していた時代に、論文執筆のために繰り返し精読した本の音は、印象が薄い。
もしかしたら、音の印象と文章として得られる知識内容は、記憶できる容量をとりあっているのかもしれない。
記憶の容量が10だとしたら、音の記憶と文章としての知識内容が、9対1、とか、6対4、とか。知識内容が正確になればなるほど、音の印象は減っていってしまう気もする。
あとの2冊は、まあまあ、だった。
その内1冊は、かわいらしい音だった。自分の持つ感覚が共感覚だと知ったばかりの女の子が、被験者となって共感覚について、自分について知っていく過程を書いた本だったが、なんともいえない、素直で、愛らしくて、わくわくした、子供みたいな好奇心旺盛な音だった。この点は、ダニエルの本とも似ていた。
もう1冊は、つらい音で、途中から読み進めるのが難しくなった。文字情報としての知識を得ようとしてなんとか読み終えたが、やっぱり感想は変わらない。真ん中に満たされない自己承認欲求の音があって、なんとか他人に自分を認めさせようと必死になってる音がした。彼がもっているのは、共感覚なんだろうけど、他者に対する不信感というか、自己肯定感の低さというか、それでも負けじと闘っているというか、とにかく、とても悲しい音がする。音のテンポも音量も音質も、なにからなにまで、不安定だった。こういう音のする本は、内容に関わらず、読み進めるのが難しくなる。