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考察ノート:LLMによる解題試行ー現成公案(3)

現成公案の原文を、gpt4-oに解説してもらうその3、深くは考えないことにする。

現成公案その3

うを(魚)水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。

只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。

かくのごとくして、頭頭に邊際をつくさずといふ事なく、處處に踏翻せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す。魚もし水をいづればたちまちに死す。

以水爲命しりぬべし、以空為命しりぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。

このほかさらに進歩あるべし。修証あり、その寿者命者あること、かくのごとし。

しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。
このところをうれば、この行李(あんり) したがひて現成公案す。

このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑに、かくのごとくあるなり。

しかあるがごとく、人もし佛道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり。これにところあり、みち通達せるによりてしらるるきはの、しるからざるは、このしることの、仏法の究尽と同生し、同参するゆゑにしかあるなり。

得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必なり。

gpt-4oによる解説

一説の部分ごとの解説

うを(魚)水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。

魚が水を泳いで進むが、進んでも水の真の終わりはない。鳥が空を飛ぶが、飛んでも空の真の終わりはない。それでも、魚も鳥も、古来から水や空を離れたことはない。これは、魚や鳥がそれぞれの自然環境において完全に一体化していることを示しています。

只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。

大きなものを必要とすれば大きく振舞い、小さなものを必要とすれば小さく振舞う。これは、状況に応じた適応と行動の変化を意味します。

かくのごとくして、頭頭に邊際をつくさずといふ事なく、處處に踏翻せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す。魚もし水をいづればたちまちに死す。

魚も鳥も、それぞれの環境に完全に適応し、それ以外の場所では生きられません。魚が水から出れば即死し、鳥が空から離れれば即死する。同様に、存在はその環境や本質から離れることはできません。

以水爲命しりぬべし、以空為命しりぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。

水が生命そのものであり、空が生命そのものである。鳥が生命そのものであり、魚が生命そのものである。命そのものが鳥であり、命そのものが魚である。この部分は、存在と環境が不可分であり、命とはその存在そのものであることを示しています。

このほかさらに進歩あるべし。修証あり、その寿者命者あること、かくのごとし。

さらに進んで学び修行することで、新たな理解や成長があることを示しています。修行(修証)とその結果としての命(寿者)は、常にこうした自然な法則の中で俯瞰されます。

しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。

水や空の限界を設定し、それを超えて行こうとする魚や鳥は、水にも空にも道や居場所を見つけることができません。これは、自己の本質や自然の法則を超えようと無理に試みることが不可能であることを示します。

このところをうれば、この行李(あんり)したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑに、かくのごとくあるなり。

もし正しい場所(境地)に至れば、それが現成公案(現実が即ち公案、つまり修行の課題)となります。道を知れば、それに従うことが現成公案となります。この道や場所は、大きくも小さくも、自分でも他人でも、既存のものでも現在具現化するものでもありません。それはただ存在しているのです。

しかあるがごとく、人もし佛道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり。これにところあり、みち通達せるによりてしらるるきはの、しるからざるは、このしることの、仏法の究尽と同生し、同参するゆゑにしかあるなり。

同様に、人が仏道を修行(修証)する時、一つの法を得ることで他の全ての法を通じ、一つの行いに出会うことで全ての行ないを修行することができます。これは、道が完全に通達された結果の理解であり、その理解は仏法の究極と共に生き、共に学ぶことによって生まれるものです。

得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必なり。

得たものが必ずしも自分の思考や理解となり、理知的に理解されるものではありません。悟りは即座に現成(現実に顕れるもの)するとは限らず、またその深い真理は必ずしも見える形で現れるわけではありません。

gpt-4o, 2025.9.5

総括と理解のポイント

この一説により道元禅師は、自己の本質や自然の法則、そして修行の本質について深い洞察を提供しています。主なポイントは:

1. **自然との一体化**:魚が水から離れられず、鳥が空から離れられないように、存在はその環境や本質から離れられません。
2. **状況に応じた適応**:必要に応じて大きく振舞い、小さく振舞う。この適応力が重要です。
3. **無理な超越の否定**:自然や本質を超えようとする試みは無駄であり、それぞれの本質や法則に従うことが重要です。
4. **現成公案の理解**:正しい場所や道を知り、それに従うことが修行の本質であり、これは既存のものでも現在のものでもない。
5. **全体的な悟りと部分的な理解**:一つの法や行いを通してすべてを理解することができるが、悟りは即座に現れるものではなく、その真理は必ずしも見える形で現れるわけではない。

道元禅師の教えを通じて、自己の内面と自然の法則との統一や、本当の悟りに至るための具体的な方法を学び、理解することができます。

gpt-4o, 2025.9.5

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