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読書ノート:コンヴィヴィアリティのための道具(イヴァン・イリイチ、訳 渡辺京二・梨佐)


はじめに

これは、考察ノート、コンヴィヴィアルなAIについて、コンヴィヴィアルの語源となった、イリイチの著作の読書メモである。最後の生成AI(gpt-4o-2024-11-20)による読書メモに基づく課題への回答は納得感があった。

課題設定

コンヴィヴィアルなAIは、道具が使いやすくなる第一分水嶺をこえて、道具が人を支配する第二分水嶺を超えずに、その間で人と協調できるようなまさに自立共生的な関係性を保ているようなAI、また人の在り方であるとした。

さて、そのようなAIにはどのような性質が必要なのか、一方人間にはどのような注意が必要なのか?

まとめと感想

コンヴィヴィアルな関係という牧歌的なイメージからは程度追い、社会主義的な、背景があり、イリイチは革命家であると感じた。道具の機能が整い、第一部分水嶺を超えると、便利な道具は人間を豊かにし、また道具自身も進化する。ところが進化が度を過ぎると、第二分水嶺を超えると道具が人を支配する。またそれが制度として整い強化される。医療や教育を例に、過剰な医療や、産業化の行き過ぎ、産業化のコマとして人を育成する教育が批判される。

確かに、より高いこと、速いこと、良いことが優れているという尺度で、医療は進み、産業は大型化し、いまや、だれでも、財があれば、かつてない長寿命で、世界中飛行機で飛び回れるようになった。一方、冨の集積と貧困との格差は地球規模で広がり、伸びたサプライチェーンは、自然現象や紛争に対する抵抗力を失った。また、医療の発展は、必要以上の清潔さが追及されかえってパンデミックやアレルギーへの生物としての耐性を落しているともいえる。より高いこと、速いこと、良いことが優れている価値観と、道具の便利さ(科学も含む)が相まって、システム化があらゆる箇所で促進される一方、一部の人はシステムに押しつぶされて息苦しく生きている。かつて善意、向上心、好奇心から始まった道具と人間との関係性は、それが自立共生的な付き合いだったものが、第二分水嶺を超え、無限に人々を苦しめるようになるとは、そういうことだ。

イリイチが予測しなかっただろう今日的な話題は、東アジアの先進国における(自発的な)少子化や、サステイナブルな経済活動への機運だろう。高度成長を経験し、バブルで世界を買いあさった日本も、いまでは失われた20年、30年といわれる長い停滞の時期を過ごしている。しかし、これはサステイナブルな経済のお手本となる姿になっているのではないか。、

話題を本に戻そう。本書では、そこから、自立共生的な社会を自立共生的な道具をとりもどすための指針が展開される。しかし、科学医療や産業構造のアンチテーゼが、民間医療や、家長制度のような旧態依然とした支配構造だったり、教育されずに好奇心を持つって錬金術の時代にもどるってこと?研究のための研究がおもわぬ成果を生み出すかも、みたいなちぐはぐがある。そして世界的には産業の進歩と人工の増大が地球のキャパを食い尽くすので、脱成長や人口抑制を主張するが、人口抑制も民間医療ということになり、それは違うだろうとも思った。

総じて、言っていることと解決が、ちぐはぐなところはあるが、文庫表紙書きにるように、「人間の本来性を損なうことなく、他者や自然との関係性のなかでその自由を享受し、創造性を最大限発揮させてゆく社会、技術や制度に隷従するのではなくて、人間にそれらを従わせる世界、や社会を構想するヒントが凝縮」されていることは間違いない。

手段が目的になり道具や制度で支配されるのは、これは人間の性ではないか、そこから離脱し人間性を取り戻すには、意識して、本でいうところのコンヴィヴィアルな関係を、人との間でもあるいは対道具でも築く努力が必要なのではないか?それには教育は必須だろうと思うし、その教育は多様性とかアクティブラーニングとかクリティカルシンキングとかそういうものになるのではないか?

そして、AIもこのコンヴィヴィアルな関係を保つためには、論理手的な思考を持たせる努力や、目的を完遂するためには手段を択ばない自律エージェントや、人間の心の理論を理解して、対応するチャットシステムのようなものは不要、むしろ障害になりうる。人と交わって相互作用で、いや今日はコンヴィヴィアルでよかったとAIも人も思うようなそういうAIが欲しいところだ。

読書メモ

II 自立共生的な再構築

p42、技術官僚支配がもたらす災厄にかわる選択として、私は自立共生(コンヴィヴィアル)な社会のビジョンを提供する。自立共生てきな社会地が実現できるとすれば、それは、もっとも十分にかつもっとも十分に地域社会の諸道具を利用できる機会を各成員に保証し、しかもこの自由を他の成員の同等の自由のためにのみ制限するような社会的配置のであろう。

P43、自立共生的な社会にとって根源的なもの、生存・公正・自律的な仕事。この三つの価値のそれぞれは、道具に対してそれぞれの立場から限界設定を行う。

産業的産出物の公正な分配のための条件は必要なものではあるが、公正を保証するには十分ではない(人は牢獄の中でも生き延びることができる)。人は自分が使う道具によって平等に奴隷化されうるのである。自立共生的な仕事のための条件は、これまで存在しなかったパワーの公正な配分を可能にするような構造的な配置である。

p56、教育という名の商品と、学校という制度は、たがいに相手を必要なものに仕立てあっているのだ。この循環は制度が目的を規定するようになっている洞察を、人々がひろくわけもつことによって打破することができる。

p57、価値が制度的に定義されているために、私たちは社会的手段の深部構造に注意を集中することがむつかしくなっている。

p58、自立共生的な社会は、他者から操作されることの最も少ない道具によって、その成員に最大限に自立的な行動を許されるように構想されるべきだ。

p59、道具は社会関係にとって本質的である。個人は自分が積極的につかいこなしているか、あるいは受動的にそれに使われているかする道具を用いることで、行動している自分を社会と関連付ける。かれが道具の主人となっている程度に応じて、道具の形態が彼の自己イメージを決定するのである。自立共生的道具とは、それをもちいる各人に、おのどれの想像力の結果として環境をゆたかなものにする最大の機会を与える道具のことである。産業主義的な道具はそれをもちいる人々に対してこういう可能性を拒み、道具の考案者たちに、彼ら以外の人々の目的や期待を決定することを許す。今日の大部分の道具は自立共生的な流儀で用いることはできない。

p61、制度には、その構造からして自立共生的な道具であるものがいくつかある。電話はその一例である。誰であってもコインさえもっていれば、自分の選んだあいてにダイアルすることができる。

p81,道具が用いられる制度的な配置の3つの型。十分に満足を与え、ゆたかに想像を喚起し、自立的であるような仕事のために正常に用いることのできる道具。労働という極上等の呼び名を与えられた活動に主として用いられる道具。そして、ある種の道具はただ操作的に動かすことができるだけである。

p100、公正な社会とは、一人の人間にとっての自由が、他人にとっての同等の自由が生み出す要請によってしか制限されることのない社会であるだろう。そういう社会は前提条件として、まさにその特性によって、そういう自由を妨げるような道具を排除するという同意が必要である。

P103、自立共生的な社会の実現可能性は、3つのレベルでの帝国主義の破壊性に関する新しい合意にかかっている。3つのレベルとは、ある国家の境界を越えた有害な拡大、多国籍企業のいたるところでの影響力、生産に対する専門的独占の急速な進展である。

III 多元的な均衡

P112、産業主義的発展が第二の分水嶺を通過した後で、世界のあらゆる人々を脅かしている6つの側面。1)過剰成長が、にんげんが進化してきた環境の基本的な物質構造に対する人間の権利を脅かしている、2)産業化が自立共生的な仕事をする権利を脅かしている、3)人間を新しい環境にあわせて過剰に計画化(プログラミング)することが創造的な想像力を麻痺させてしまう、4)生産力の新しい水準が政治参加の権利を脅かしている、5)古いものを強制的に廃してしまうことが、言語や神話や道徳や審判における先例の源泉である伝統を生かす権利を脅かしている、これら5つは手段を目的に倒置する破壊的な作用を共通して持っている。そして、6)巧みに仕込まれているが強制的な満足の押し付けが生み出した広汎な欲求不満。

p126、大規模な道具が人々の代わりにしてくれる何かが、”よりよい”ことと引き換えに、人々が、自分の力とおたがいの力でできることを行う生まれつきの能力を放棄するとき、根本的独占が成立する。根本的独占はかちの産業主義的制度化の反映である。

p133、独力でどれほど学ぶことができるということにとって決定的なのは、道具の構造である。すなわち道具が自立共生的ではければないほど、おしえるという行為が助長される。

p136、教育は、学校によって生産される、パッケージ化された連続的な知識注入の形をとった、将来の人生に対する計画化された(プログラミングされた)準備でもありうるし、現在進行中の生活に関する不断の情報注入でもありうる。

p138、学習が教育に変質したことは、人間の詩的能力、つまり世界に彼個人の意味を与える能力を麻痺させている。人間は自由を奪われ、彼自身ですることを奪われ、彼が学ぶように他人が計画したことではなく、自分の欲することを学びたいという彼の深い要求を奪われるならば、ちょうどその分だけ生気を失っていく。

p148、最良の場合は図書館は自立共生的な道具の原型である。図書館以外の学習道具の貯蔵庫も、図書館を手本として組織することができる。

p156、力の懸隔がひろがるのは、生産に対する管理が最大多数の人々のために最大量の商品をつくることに集中されているからである。貧しさのレベルが上昇するのは産業の算出の構造のせいである。

p154、この無力感は第四の崩壊状態、すなわち力の分極化が進行した結果である。肥大する巨大管理機構の圧力によって、権力は少数のものの手に集中され、大多数のものは新聞発表に依存するようになる。

p164、私は社会の分極化が二つの相補的な要因、すなわち、産業主義的に生産された広告される生産物の度を越したコストと、高度に生産的とみなされる仕事の度を越した希少さの産物であることを明らかにした。

p170、学校が今日作り出している科学道具に基づく権利の制限が撤廃されれれば、正統教育を受けたものでなくて、探求心に富む者たちが錬金術師の地下室に入れるようになるだろう。そして研究それ自身のための研究が、生産上の障害を取り除く方法ととり組むチームによる研究よりも、多くの思いがけない成果を生み出すことであろう。

p174、今日の研究は圧倒的に2つの方向に集中している。よりよい商品のよりよい生産の進展をめざす研究や開発と、よりいっそう消費を行うように人を保護することに関する一般的しすてむ分析である。これらの研究はそれとは反対の方向へ向かうべきだ。それを「管理に立ち向かう研究(カウンタフォイル・リサーチ)」と呼ぶ。道具の殺人的な論理を見破る指針を提供し、生活のバランスを最適化し、それによってあらゆる人々のための自由を最大にする道具と道具体系を案出することである。

IV 回復

p188、道具が成長するには二つの領域がある。ひとつは、そこでは機械が人間の能力を拡大するために使われる領域であり、ひとつは、そこでは機械が人間の機能を縮小しふるいにかけ置き換えてしまうために使われる領域である。

p192、”よりよい知識”への過剰信頼は予言の自己成就をもたらす。人々はまず自分に頼ることをやめ、ついで自分のしていることが真実かどうかを教えてもらいたがる。"よりよい意思決定"への過剰信頼はまず、人々の自分で決定を下す能力を狂わせ、ついで、自分たちは決定をくだせるのだという彼らの信念を掘り崩してしまう。

生成AI(OpenAI gpt-4o-2024-11-20)の課題への回答

コンヴィヴィアルなAIに必要な性質

課題設定に対する回答を最新生成AIに聞いてみた。ストレートフォワードな、何の工夫もないプロンプト。

以下の課題設定に対して、読書メモをみて回答をしてほしい。
#課題設定
<略>
#読書メモ
<略>

入力プロンプト
gpt-4o-2024-11-20

どうも自立共生的な道具としての設計、道具としての限界の設定が必要だし、評価の視点もより良いというものから、人間の能力の拡大というようなものに変更する必要がある。

人間に求められる注意

では、人間に求められる注意事項は何か?

gpt-4o-2024-11-20

人間側も、道具や制度に対する批判的な目や、主体性の保持、均衡や構成への配慮、そして、道具の利用目的の再構築(手段を目的にしないように)が必要、なるほど。

gpt-4oのまとめ

gpt-4o-2024-11-20

やはり、新たしいAIの設計思想が必要だ!人間と協力してこれが構築できるかが、新たな課題となることがよくわかった。ありがとうgpt-4o-2024-11-20(ムウ、長い。。)

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