小説|風のあとに
神田の古書店は、微かな香が漂い、その静寂と通りの雑踏とが、射し込む西陽に交じり合っていた。そこで、ふと目に留まったのは、背表紙の擦れた一冊――夏目漱石の『こころ』だった。紙面は茶色く、どこか現実感の薄れたざらつきが指先に伝って、私は図らずも頁を捲っていた。友人の、道端に佇む横顔を感じながら……。
だが次の瞬間、記憶は波に攫われるように意識から消えていった。私はその本に、黄ばんだ一枚の紙が挟まれていることに気が付いた。それは喫茶店のレシート。――1996年11月、ホットコーヒーと印字され、変哲のない古紙だったが、その裏には、掠れ、揺れた字で、こう書かれていた。
「どうすれば赦されるのか」
その言葉は、僅かに胸を圧すようだった。赦し——私はそこに宿る重さを感じながら、書き残した人物に思いを巡らせる。彼は何を背負い、この問いをここに残したのだろうか。恐らくこの男は、冷めたコーヒーの前で、苛まれながら、この書を読んでいたのだろう。震える指で書き留めた姿を思い遣ると、私の中にも冷気が忍び込んできた……。
あの時、彼女と並んで歩きながら、遠目に見た友人の横顔。彼は私たちを目にしただろう。その姿の寂しさに、私は気付けなかった。いや、目を逸らしていたのだ。私は自らの欲望に従い、彼女の選択だと正当化し、それが何を齎すのかを考えようとしなかった。
私たちの関係は、彼の心の奥底を知ることもなく、沈黙と共に終わっていた。もし、あの時違う選択をしていたなら、どう変わっただろうか……。だが、その問いは、答えのないまま漂うばかり。
再び『こころ』の頁を捲る。そこには、先生の告白が記されていた。先生はKの死を受けて、自らを赦すことなく生き続けることになった。それは罪悪感に圧し潰される、魂の軋みのようだ。
――果たして、赦しとは他者によって与えられるものなのか。それとも、自ら達成するものなのか……。
本を閉じ、元の場所にそっと戻す。外に出ると、刺すような風が吹きつけ、唇を乾かした。夕暮れの光は微かに地平線に残り、その一筋もやがて闇に染まってゆく。私は路地裏に立ち尽くし、頼りない街灯の下で、散らばる落ち葉が舞い上がるのを見つめていた。――赦しは、風のあとに訪れるものだろうか……。その言葉は空しく響き、風の渦に吞まれていった。
(959文字)