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2話:特務機関の「学校」生活
ある日。上官に呼ばれて部屋に入ると、さらに偉い人。その方と二人きりの部屋。
「この机を拭いてくれるか」
机の上には雑巾。
「はい!」
祖父は机を拭いた。まず天板の上をくまなく。すみずみまで。小さな汚れを見つけたら、丁寧に。
見る角度によって、光の反射で汚れが見えることがある。
天板がきれいになったら、机の裏を拭いた。
それから机の脚。上から下へ。
最後に脚の裏側まで。
きれいなところから、汚れの多いところへ。逆は無い。
細かい隙間も、雑巾の形を工夫して拭く。
雑巾の汚れた面は、たたみ直して、汚れが机に戻らないように。
そういう細かいところ、丁寧なところ。私は祖父に似ている。だから、祖父がどのように拭いたのか、まざまざとイメージ出来てしまう。
冗談みたいな話だが、これで合格したと祖父は言っていた。一時が万事。拭き方を見れば、その人物の普段の生き方が見える、か。…それはそうだ。
だけど、私は少し違った考えだ。おそらく他にも、周囲の評判など、様々な試験が日常の中にあったのだと思う。上官たちは、新米の兵士たちを見定めていた。だが、祖父はことごとく合格しただろう。
こうして、最終試験のような、「机拭き」のあと、祖父は「学校」へ入学させられた。
中野学校の学生は「名誉や地位を求めず、日本の捨石となって朽ち果てること」を信条とした。日本軍一般の教育とは異なり、生きて虜囚の辱めを受けてもなお生き残り、二重スパイとなって敵を撹乱するなど、あくまでも任務を遂行すべきよう教育された。また、汚く卑怯ともいえる諜報活動を行うこととなるからこそ、「至誠」の心を強く持つよう教育された。
この内容も祖父の話と合う。他の兵隊さんたちと違って、自決はダメで、何としてでも生き残り、帰国するように、情報を持ち帰るように、言われていた、と。
そして「至誠」の心もあった。祖父は卑劣な作戦や、残虐行為を行いながらも、日本を守ろうとし、日本軍の仲間に対して見捨てず優しく、故郷に対してずっと誠実だったと感じる。
戦後、26歳で帰国した後、家族には誠実だったが、家族外では人心掌握しつつも、心は許していなかった。愛妻家で、わがままな祖母を甘やかして大事にしていた。だが、息子である私の父が祖父が決めた嫁ではなく、恋人=私の母と結婚したことには怒っていた。生涯、私の母を家族だと思っている感じはなかった。
午前中は諜報・謀略・防諜などの秘密戦に関連する学問の講義と実践、午後は自習となっていた。ここでいう「諜報」とは、情報を収集することで内外の情勢を正確に掌握し、いかなる事態に遭遇しても素早く的確な意思決定ができるようにすること、「謀略」とは、情報操作や宣伝で敵を孤立・混乱させたりすること、「防諜」とは、敵が仕掛けてくる諜報、謀略を探知し、それを逆利用し偽の情報を流して敵を混乱させることである。いわゆるスパイの特殊技能そのものの教育も行われたが、教育の中心は、諜報の理論や、柔軟で融通のきく能力の育成に置かれた。
祖父はまさに、柔軟で融通がきいた。柔軟でありながら、的確な意思決定を素早く行い、その計画を長期間、やりとげることもできた。情報を収集し内外の情勢を的確に掌握するために、自分だけのアイデアで行動していた。学校で習ったことだけではなく、自分の才覚をフルに発揮していたと思う。上官の指示を待つよりも、自分独自の発想で乗り切った。具体的には…
では、話を中国語の授業に戻そう。
Wikipediaから引用したとおり、午前中に空手や中国語の授業を終えたら、午後は自習だった。2年後には、命がけのスパイになるのに、そんな、ゆっくりしてて大丈夫なの…?と子ども心に感じたのを覚えている。
午後の自習の時間に、祖父は覚えたての中国語を試すことにした。授業は集中して受けているのに、通じない。おかしい、と気づいた。日本人の教師の発音では、通じない。
それに、中国人のネイティブの教師の授業だけじゃ、足らない。
故郷の母が持たせてくれて15円を使うことにした。それで、現地の人を誘って、茶店に入る。現地に知人などいないから、道ばたで座ったり、寝転んだりしている、ガラの悪そうな不良や、ホームレスに声をかけた。彼らは奢ってもらえると知ると喜んで話し相手になってくれた。
彼らは、祖父の中国語がカタコトだったことも、気にしなかった。日本人じゃないか?と疑って、攻撃したりもしなかった。日本とは違って、国民一丸となって戦争ムードという訳ではなかった。彼らは自分の国が勝つか負けるか、祖父のようには興味が無いのかもしれなかった。ただ、奢ってくれる変な奴がいる、と。不良の仲間に噂が広まって、祖父にたかり始めた。祖父は自分から誘う必要がなくなった。彼らと毎日のようにお茶した。中国式のお茶の飲み方もそこで覚えたそうだ。
時には、銭湯へも行った。彼らはホームレスなのでお風呂に入れていない。だから、とても喜ばれたそう。お風呂の鏡が曇ったところへ、指で漢字を書く。習ったばかりの中国語を、彼らに読んでもらう。中国語の発音は、とても難しい。祖父は私に「上下するんやで」と教えてくれた。
背中を流し合い、彼らと仲良くなった。彼らは祖父がどこから来たのか気にせず、仲間になっていった。
そのうち、親分のように慕われるようになっていった。
当時、使いどころを心得ているな、と子どもながらに私は感心した。大切な大切な、お金。もう会えないかもしれない母からもらったお金。それを使うなら、今、ここ。生きて帰るための、自己投資。
いつも長兄にばかりお金を使っていた両親。よく働く、親孝行の良い子だった六男の祖父に、母親が自分のへそくりを持たせてくれた。涙が出そうになるほど、大切なお金。生きて再び、母に会うために、ここで使う。まだ母恋しい小学生だった私の共感力だからこそ、余計に感じ入ったのだろう。私が無駄遣いはせず、自己投資にお金を使うようになったのは、あの時、祖父のお金の使い方に心から感心したからかもしれない。
だが、大切なお金も、いずれ無くなった。人数が増えても、なぜか祖父は奢った。祖父の大切なお金を使い果たした。
そこまで聴いて、私は不安になった。大切なお金が無くなっちゃったことに。
「それで、どうしたの?」
「上官に話したんや」
軍からも、毎月、お金が支給されていたらしい。そのお金も使い果たした祖父は、上官に金額アップの交渉をした。
なんと上官はOKしてくれて、祖父だけ支給額が増えた。祖父が必要とする金額は、どんどん増えていき、その度に、上官は金額を増やしてくれたそうだ。
なぜか?
軍にとっても意味のある投資だということを、祖父はお得意のセールストークで説得したと私は思った。
祖父が中国人ホームレスたちを、家来として組織化し始めていたからだ。
初めは、中国語の習得のためのお茶だったが、徐々に現地情報に精通していった。
祖父はやがて、中国人ギャング団の親分という立場になりすました。親分という立場は、外部から恐れられ、接触が少ない。本当の身分を隠すのにも有利だったろう。中国人の子分をたくさん抱えた親分が、実は日本軍の諜報兵だとは、疑われにくい。私はそう考えている。
祖父は、「学校」に在学している間に、すでに卒業後の活動方法まで定まった。単独行動よりも安全だと私は感じる。満州の「学校」の卒業生は、祖父の知る限り、帰国出来たのは祖父以外には一人だけだ。
祖父は、農家の六男として生まれ、真面目で親孝行だった。小学校の登校前と下校後の一日2回は、牛のエサやりを担当していた。草刈りに出かけて、食事含めて牛のケアをしなければ、学校で勉強させてもらえなかった。成績も良かったけれど、上の学校に進級させてもらえるのは、何も手伝わない長男の兄だけだった。
それなのに、この兄はヤクザ者になった。祖父が奉公先で稼いだお金は母にあげたのに、兄が博打で使い果たしてしまった。祖父はこの兄をたいそう嫌い、縁を切っていたから、私は会ったことが無い。だけど、祖父は長兄から、ヤクザ者の行動や在り方を見知っていた。それで中国では、兄をモデルに行動することが出来たのかもしれない。
「学校」生活では、理解ある上官に恵まれ、中国語は毎日のように家来たちから学んだ。祖父の中国語は、上層階級の言葉では無いのだろう、と私は感じている。ヤクザの親分の言葉なのだから、説得力もある。
「学校」卒業後も引き続き、家来の出身地から、方言もマスターした。北部、中部、南部で違うから。「学校」のある満州は北部だから、中部や南部出身の家来から方言を学んだ。
日本軍は主に満州にいたが、祖父の活動範囲は、中国全土に渡っている。
「学校」の外で日本軍に会うと、一緒に船でやってきた、軍服の仲間に声をかけられた。おそらく、あまり声をかけられたくないはずだが、祖父は気安く会話した。その時、大切なお金を貸したそうだ。とても感謝されて、帰国後に仲間がカメラ販売店を始めた時に、お礼にと高価なカメラを贈られたと、大切に保管していた。
学校を修了し、各自が諜報活動を開始することになった。
ここからの内容は、どこまで書いて良いのか分からないのが正直なところだ。
書くことに抵抗もあるし、何らかの団体や海外から非難されるかもしれない…センシティブな内容を公開するには、規約違反も気をつける必要があるのだろう。
とにかく、この、私だけが知っている、歴史の闇について記録しておく必要があるような気がしている…