芝生の色は何色?
こんばんは、ぼくの20だいありーです。
隣の芝生は青く見える
この言葉は日本に生まれて住んでいたら、多分一度は誰しも聞いた事があるものだと思います。海外にも似たような言葉があるんでしょうか。
私もちょくちょく、誰かの、どこかの芝生が青く見えたりすることはあります。快晴の時のような青空と同じ色で、心地よい風が吹いたら優しくなびく、そんな芝生に見えてしまうことも多々。
でも、私は正直、我がみちを行きたい性分で、結構周りを気にせず色々チャレンジしたり、やってみたいことはどうしてもやってみたいし、こうなりたいものは確率がどうであれなってみたい!
こういう部分も自分の中のあります。もちろん100か0かの人間ではないので、怖気付いたり、空気を読んで合わせたり、こうした方がいいかななんて感じることももちろんあります。
それにしても、外の世界というものに縛られず、こんなに自分の中の世界でやりたいこと、なりたいものに魅せられて、それに向かって突き進んでいく人間なのに、なぜ他の人や環境を羨ましく思ってしまうのか?
少し違ってしまうのは、わかっているのになぜ羨ましいと思ってしまうのか?
憧れとは違います。例えばサッカーのメッシ選手に憧れていますが、彼を羨ましいと思うより、ただただ尊敬と大好きと、もし自分がメッシだったらなんて妄想したり、、
ネガティブのエネルギーは生まれないんです。
でも昔の知人、同じようなバックグラウンドを持っている人、あるいは同世代の人々のことが耳に入るとたまに、隣の芝生が青く見える状態になります。
それが大きくなると自己不信になったりも。
最近、その理由が少しだけわかった気がします。
人は誰しも生きている上で無意識にものさしを持って生きているから。
だと気づきました。車を運転していた時に聞いていたラジオbayFMで光永亮太さんという方がリスナーからの質問への返答で、さらっとこう言っていました。その部分がアンサーのメインではなかったけれど、自分の中ではすごく響いて、
自分が無意識に持っているものさしってなんだろう?
このように考えるきっかけになりました。
いざ向き合おうとすると恐怖を感じて最初は中々できず、、
でもこういう場合って多分、
自分が弱い、ダメ、劣っていると決めつけている「自分の中にある核心」を晒したら、生きていけない、あるいは危なくなる、評価されなくなる、、。
こういう自己防衛反応みたいなもの。
細かいのを挙げると沢山あるので、大まかにいうと(いつか細かいことについて話すかもです、、)
こんな言葉あるかちょっと分からないけれど、
今までの価値観の上で成り立ってきた社会的王道というものを信じてたい、あるいは、それを信じなければ私は終わってしまうという強い観念。
なので私はそれを気にしたり、そのために努力したりしないと、、
ある程度それが正しかったり、いいとされていたり、それ以外をあまり知らない、あるいは考えずに育ってきたので、すごく根強く自分に残っていると感じました。
でも気づけただけで、隣の芝生の色は青色ではなくなるんです。
それぞれがそれぞれの芝生を持っている
こういう感覚に私はなります。
自分と向き合うって、大切なのはわかっていたけれど、
不必要な価値観であったり観念(ビリーフ)に気付く事
これができるからかもと思いました。