25杯目
ハァ…
涼「行ってやってよ彩人、お願いだから」
彩人「ごめん涼、」
そう言って、咄嗟に俺は箱を持ったまま走り出した。背中越しで小さく『遅ぇんだよ、』って呟く涼の声が聞こえて心が痛む。
ホテルの濃紺の絨毯を踏み締める足と心臓の音がリンクする。心の中心まで感情がドンドンと響いて来るようだ。
涼は、美咲に特別な感情が有ったのか?
ずっと俺は逃げてきた。自分の気持ちからも、 週末、必ず来てくれていた美咲からも。
美咲がエスプレッソを注文する度、
コーヒーラウンジの裏から聞こえるマシーンの音を聞くと、心の中をギリギリと削るような気持ちになった。俺は全力でそこから逃げて来た。
美咲は、あの窓際の席で、全部で何杯のエスプレッソを飲んだんだろう。
そして俺は何回、あの音を聞いたんだろう。
エスプレッソは“急速に”“抽出した”という意味が有る。
全く関係のない音楽標語のエスプレッシーヴォと
勝手に関連付けてた俺は、
あの苦味の中に『表情豊かな』っていういわば“情熱”が有るんじゃないかって淡い期待をしてた。
だけど、美咲から決定的な別れを伝えられるかもしれない怖さに負けて、自分から近づく事は出来なかった。小さなプライドを守って…傷つきたくなかった。
エレベーターの回数がぐんぐん上行する。
はぁはぁと切れた息を整えて、706号室の前に辿り着いた。