泣かない娘と泣き虫な母
両親の泣き顔って、どのくらいの頻度で見るものなんだろう。
私の母は、幼少期からよく泣く子だったらしい。
働き者の父(私にとっては祖父)と、料理上手な母(祖母)。それから、しっかり者で気の強い姉(伯母)。
姉妹喧嘩で負けては泣き、台風の夜に帰ってこない父(電力会社勤務だった)を心配しては泣き、映画やドラマを見ては泣いていたと聞く。
私が物心ついた頃、母は泣き虫だった。
それほど感情の起伏が激しく、例えばヒステリックに怒り散らすなんてことはなかったけれど、テレビドラマやドキュメンタリー番組を見ては泣いていた。
私の幼少期は、そんな母を見て「これはお母さんにとって悲しいことなんだ」と学習しては、自らの言動を慎むという、可愛げのない子どもだった。
そんな小学生時代のある日。
母が泣きながら帰ってきた。
何年生の時だったとか、私の他に誰がいたとか。
そんなことは覚えていない。
車が帰ってきた音を聞いて、何の気なしに玄関を開けた先に、涙を流す真っ赤な母の顔があった。
それだけが写真のように鮮明な、何故か覚えている記憶。
あとは朧気な記憶だけれど、おそらく、母が転勤した年の春だと思う。
一番身近にいた大人が、ぼろぼろになって帰ってきた姿を見て、漠然と、思ったことがあった。
あぁ、社会ってこわいところなんだ。
あの泣き虫な母でさえ、帰り道の車中で一人きりでしか泣くことを許されない社会。それがとてもこわいところだと感じて、そこから更に加速度的に、私の世界が閉じて行った。
人前で泣かないこと。怒らないこと。
他人に頼りすぎないこと。
丁寧に言語化していったら、いくつ自分ルールがあったかわからない。ルールの基準は、他人を困らせないことで、私の心はそこに介在していなかった。
父が泣くのを見たことは、今までにおそらく2度しかない。
祖父(父にとっては義父)と、祖母(父の実母)の葬儀のときだけ。
どちらも私はずいぶんと大人になっていて、必死で泣くのを耐えていた。
当然、母は泣いているだろうと思っていた。
けれど、母は泣いていなかった。
泣きじゃくる弟と、唇を噛む私の間で、静かに、ただ静かに座っていた。
読経をききながら、母と目が合って、それからそっと微笑まれて、小さな声で母が言った。
泣いてもいいんよ。
眉尻の下がった困り顔は、今でも鮮明に思い浮かぶ。
私が泣いたら誰かが困るとか、負の感情に結びつけていた足枷が、その時、全部飛んでいった気がした。
今月、祖母が亡くなった。
コロナ禍で、私は帰れなかった。
両親の泣き顔って、あと何度見れるんだろう。
私の泣き顔って、あと何度見せられるんだろう。
泣けなかった娘と、泣き虫だった母。