#未来のためにできること
文藝春秋のアレにのってあれしてみようかと(よくわかるお話で、、、)
さて、昨今、認知症の法律、障害者の法律、虐待、イジメ、何でも法律にしてるのに、実際にはひどい事件が湧き出すようにみえる。
ネットの情報網のせいもあるし、昔なら問題にしなかったことだから、というのもあるだろうが。
なんでも法律にしないと守れないこの国の人権というか、もはやコミュニティの問題なのだと思うのだが、、、、どうなっちゃったんだろう。
前のシーズンのドラマ、「不適切にも程がある」があんなに話題になるのは、懐かしさだけではないと思う。
今考えると無法地帯のような昭和には
法律でどーのこーのいうまでに、
人ってここは絶対やっちゃだめ!っていうものが暗黙の了解であったからこそ、無茶が許されたという、なんというか、居心地の良さ、当たり前があるからこその自由、みたいなものがあったと思っていて。
だから隣の家のじじぃからゲンコツくらっても、全然知らない人から叱られても、その、基本的なところを超えた行為ではなく「まあ、悪いことしたので怒られましたよね」って思えたんかしらん。
そもそも、そんなに怒られる事をした私が、どーなんだって話もあったりなかったり(あるあるあるある、、、byクイズ100人にききました)
さて!
そこで、いまベッドの足元で理解のできない遊びをして、自分の子たちをふと見て思ふのは、
この子達に一体、何を教えていったらいいのか、ということ。
近所とのコミュニティ、イジメ、障害、虐待、認知症、、、。法律はできたけど、だからなんだ?法律は有事のときにも積極的に守ってくれるものではない。法に触れないような陰湿な事が増える事も想像できる。
人が侵食してはいけない個々のエリアというか、そういう言語化しにくい「思いやり」みたいなことは、どうにも伝えにくい。背中で見せるとか?いつも自分が愛されているという安心感を与えるとか?
結局、いい大人になると未来のためにできることって今の社会をこの先、子供たちがどれだけ幸せに生きられるようにできるか、自分たちも年老いていったとき生きやすい社会にできるか、そういうことだと思う。
障害者だから、認知症だから、親がいないから、枠にはめて、こーだからこーゆう支援しなきゃいけない!支援受けたいならこーゆーことになってないといけない、っていう、枠組、条件づけ。
歴史を振り返っても、こんなシステムが不幸を作ってきているのに、また繰り返すんだな。
目の前にいる人が、何が必要か、どういう人か、観察力、洞察力、想像力。これがあれば変な社会にならないと思うけど。
これは、矢印を自分自身に向けても同じ。
SNSとか世の中の常識とか、そんな枠組みで自分をみるんじゃなくて、自分に対しても内観して冷静に判断できる力があれば、幸せに生きていけると思う。
さて、これをどう伝えていこうか。
私自身がこの感覚を大切にして
まずは実践していくことが小さな小さな私の「未来のためにできること」かもしれない。