カムアウトできる社会
『カムアウトが普通にできる社会』か『カムアウトの必要のない社会』
どちらを成立させるか。
目指すべきはどちらのあり方だろうか。
違うようで同じような。同じように見えて少し違うような。
この絶妙なニュアンスを分かち合える人間になっていきたい。
私は「セクシュアリティ」について考えている時に、あるモットーを作った。
相手を否定しない。
私の存在を肯定してほしい時こそ相手を否定しないことは重要なのだと思った。
肯定しようとすれば、難しい
受け入れようとすれば、難しい
しかし、否定しない。
できなくはない考えだと思った。
このモットーは人との付き合いの中でも必ずそう思っている。
だからこそ、私は理想としてのカムアウトが普通にできる社会を夢見ている。
相手を否定しない、皆が持てば、カムアウトなんて余裕でできる。
でも、これはあくまでもわたしの理想論なのだ。
だてに、大学のクラスで自分のセクシュアリティを打ち明けることを渋っているし
親の「恋人いないの?」にも自分のセクシュアリティを隠すように「今はいないよ」と言う。
知られたくないんだ。
そんな自分に呆れる。
セクシュアリティにとらわれたくないくせに一番とらわれているじゃないか。
何を言わなければ、何もしなければ「普通」だと思われている自分に安心しきっている。
ため息が出そうだ。