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人と意見を交わすこと


6/12(金)の早朝、全然脈絡なく目にした「いまを生きる手習い塾」のバナー。

何が気になってタップしたのかも全く思い出せないのだけれど、

・自分の内側の声に気づき捉え方を学ぶ
・言語化する
・日本語と向き合う
・自分を軸にして話す

という、何か4回の講座らしい。

あとは、「ジャーナリズムの視点」とか「デンマーク」とかの文字が飛び込んできたことを覚えている。
それから、それもどうして出会ったのか思い出せないけれど、以前このnoteでニールセン北村朋子さんの記事に出会って、心惹かれるものがあった。その方が講師をしてくださるようだ。

他の都合も勘案して、どこを採っても全く気がかりがないので、分からないけれど参加してみることにして、先日、初回があった。酷い時差の振り返りになってしまったけれど、次の回の前までにまとめられたら良しとしたい。
*本当にひどい・・・初回講座が6/21で、これの大半を書いたのが6/28で、まとめきれずに時間が経ち、今日(7/5)の午後に二度目講座なので、慌てて書き込んでいるという体たらく!

手習い塾#1(6/21)_初回の内容


講座の構成や全貌について語ることは割愛するが、初回3時間は

・参加者の自己紹介
・ニールセン北村朋子さんによるデンマークの社会学教育に関するレクチャ
・参加者同士のインタビュー
・journaling /内省の時間
・シェア
・グループ分けとグループ時間

こんな感じで進み、ここではデンマークの社会科のことを振り返ろうと思った。

自分と「書くこと」

私自身はもともと割と言葉が好きだし、自分の気持ちをできるだけ丁寧に掬い取りたいとしている方だと思うし、それが誰の言葉なのかを明確にして話すことを平生より心がけている方だとは思う。

ただ・・・何と言うか「発信する」なのか「伝える」「届ける」という視点を織り込もうとすると、あるいは、そちらに軸足が移りそうになると、途端に腑抜けというか腰抜けというか、すごく苦手だなぁという気持ちがどこかにある。

批判されたくないとか、変だと思われたくないとか、人の目が気になるという気持ちよりも(いや、そもそも、私が云々気にするまでもなく、自分の書いたものにご縁を持ってくださる方の数は、少ないのだから、心配無用)、「私はどうしてこれを書くのか?」「誰に向けて書くのか?」「これを書いてどうしたいのか?」というそういうアレコレに押しつぶされそうな気持ちになってしまう。
そんなこんなあって、これまでのところは「書きたいから書く」「書きたいことを書く」「書きたいように書く」ということにしていて。全部「自分のために書く」ということにしていた。

それは、それ。「自分のために」書くことを、止める必要はないし、「書きたいから/書きたいことを/書きたいように」書くことも、変える必要はないと思う。でも、何か、新しいラインを、自分の中に持ちたいような気持ちがあったのかもしれない。

自分の発信に関する課題意識


手元のメモを見ると、初回の最後の言葉として「本音の伝え方:伝えたいことが真摯に伝わるように」とあって、「デンマークの対話 cf.日本の無礼講」と書き添えてある。

日本の・・・と前置きする程、私は世界を知らないけれど、話をするのが難しいと思う時がけっこうある。個人的には、大人になってからのことで、私が「違い」として捉えるようなことが、人によっては「否定」「批判」「攻撃」と響くのだ、と分かるまでにどれだけの時間を溶かしたのだろう。

あなたとは、この点について、意見が異なるね。
私はこう考えているよ。
あなたはどうしてそう考えたの?知りたいな。

ただそれだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろうと分からなくて。
私は戸惑って疲れて諦めたのかもしれない。自分が傷付かないために。
誰かを傷付けたい訳でもないし、私も傷付きたくないし。

でも、自分が十分に癒えたら、力が湧いてくるのかもしれない。
消極的防衛一択の時期を経て、これは傷付かないけれど何も生み出さないと思うに至った訳で。誰かに何かを言われた訳ではないけれど、衝突ではなく出会いや対話を増やした方がいい気がするし。殊更そのことを声高に掲げる気持ちもないけれど、自分のスタンスをある程度明確にして表現することで、得られる反応や手応え、見えてくる景色や立ち上る世界が少し変わってくるかもしれないなぁと予感している。

何というか、前に進んで行くことの助けとなる建設的な言葉や語りを、自分の中に持てたらいいなぁと思う。講座自体はあと3回。期間としては1ヶ月半の中で、自分へライトな負荷をかけてみたいなぁと思う。

書き方と感情と表現


できるだけ固めに・・・と意識して書き始めたのに、結局、気が抜けたゆるい感じで収束していくなぁと、読み返している。おべべはおべべで置いておいて、中身のふわふわ感とむっちり感みたいな揺れ、いずれにしても絶対にある背骨が、どれだけ無理なく伸びやかであるか、というようなことが私には大切で・・・(と冗長になる)。

最近思い知ったのは、自分の中の怒りや苛立ちという感情だ。
私は、意図の有無に依らず、そういうものを、長い間、無きものとして、自分の奥底に眠らせていた気がする。別に、良い人と思われたいとか、優しいと思われたいとか、そういうことではなく、眠らせる以外にどうしたらいいのか、方法を知らなかっただけのこと。

本当は「エ?」とか、もっと言ったら「ハ?」とか思う気持ちを、隠すつもりもないけれど(注:あまり憤るような気持ちになることは頻繁にはないけれど、100のうち99ぐらいのことは、受容できるけれど(すごく同意、ある程度同意〜違うけれど受容までのグラデーションはある)(そしてときどき1ぐらいダメなのがあって、それは激しくダメだったりする)、どうして良いか分からないから出さないし。出さないからと言ってなくなるものではなく、なのに言わないから、隠しきれない怒りを毛穴からダダ漏れにしていたのではないかと思うと、それはそれはharmだったろうと思う。これまで、害を被ってきた皆さん、世界に、申し訳なく思う。

とまれかくまれ。
人なんだから、傷つかなくて良いところでも傷つくし、どうでも良いところでも腹を立てるし、恥をかき、べそをかく。間違えるし、迷うし、良くも悪くも気が変わる。そーいうことの全体が生きているということだと思う。硬直するのは死後だけで良い。

↑本当にまとまりがない。建設的な出し方・表し方、をあらためて(初めて)学びたいと思っている。

デンマークの社会科と、それを知っての感想、自分的にすること

デンマークの社会科教育は、単純にすごいなぁと思うし、同時に極めて真っ当だなぁと思った。こういう国を目指したくて、そこにはこんな人たちがいて、その素養はこんな感じで、それを育むためにはこんな風にしたら良いんじゃなかろうか。みたいな。これは、あまりにも雑なブレイクダウンだけれど、少なくとも目指そうとするストーリーラインはある訳で。

でも、変化や成長って直線的なものではないから、「学校の学びを家庭(等)に持ち帰って対話の材料になる」とか「選挙の時は候補者の話を聞いたり実際の選挙を子供も同じようにしてみて、現実の結果との一致や差分をレビューしてみる」という導線みたいなものが設計に含まれていたり、
大人も大人で、大人になっての経験を通じて生まれる新たな悩み、人のらせん状の成長に寄り添うような仕組みを備えていたり(フォルケホイスコーレや、ペタゴーの存在。まだあまり知らないので、ちょっと実態とズレていルカもしれません)、何というか、今風な言葉で言えばオーガニックと言うのか。

「人が育つ」って、大人になるまでが「育つ」ではなくて、生きている間ずっと育つ訳で、結局生きる全体が育つ過程の連続でしかないと思う。
あー、この「育つ」を放棄することは、誤解を恐れずに言えば「生きる」の放棄で、恐ろしいことに、この「育つ」を諦めることが、構造的に若年化/広範化しているのかな。

人ではなく、仕組みに注目する。
人を変えようとするのではなく、人が変わってしまう仕組みに変える。
タイムスパンとしては気が遠くなりそうだけれど、何が起こるかは誰も分からなくて。思いがけないリープに、期待しないように期待したりしながら。考えるし、意思を表明したいと思う。

私は、怒っているんだ。いや、正確には、怒っていたんだ。
一人一人の個性や創造性を、さんざ押し込めるように、殺すようにしてきて。自由な意見とか、新しい発想とか、そういうものを求めるときには心地良い「理解の範囲」のラインを、目隠しで手探りさせて。何なんだよ。ただただ、腹が立つ。「個人としては」。

でも、仮に、それが、どんなに大きな構造的不健康さだったとしても。
その構造の一部に望まずとも組み込まれている以上、責任がある訳で。ギャーでもなく、ワーでもなく、建設的に前に進めたい。

回り道しかしていないが、これが民主主義というものだったのか。デンマークの社会科のトピック一覧を見たときに、正直、考えてみたことのないことがいくつもあったし(特に、歴史・政治・経済・・・恥ずかしいけれど本当に苦手)、今、相手が大人でも子供でも、話せないなぁと思うことがたくさんあった。

「社会には、こんな要素があるよ」「世界の一員として生きていくって、こんなアレコレが絡み合った中にいるっていうことだよ」というのを、バーっと網羅的にカバーしたカリキュラムで、その広さを知って、思考して、それぞれにその時の自分なりの何がしかの着地を見つけて(もちろんそれは、自分の変化や世界の変化に合わせて、変化し続けるもので)、それを持って「対話」するっていう、その一連をできる、少なくとも経験した(やり方の上手いとか下手とか、内容の優劣とかは、特になく)ことは個人の一生の財産だし、一定の共通理解/共通言語がある、ということは、国の財産、国の土台、一つの盤石さだったり成熟した社会を目指すための土壌となるような気がする。

私は、自分が真面目に話そうとすると、正論で直球になりがちだと知って、うんざりしている。大人になって、なおさら思う。
その部分は、意識して補正をかけて、変質もさせないけれど玉砕しない感じで行きたいよね。
しなやかに。軽やかに。究極、愛だよね。

自分が学んだり、考えたりするテーマを、隔週2時間は、塾のみなさんと、それに集中したいと思う。この2週間は全くしなかったが(怠惰の告白)、次の2週間は日々のJournalingもして、隔週2週間の間の時間も意識を寄せ続けるようにしたいと思う。


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