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2001 サナトリウム小説私考――JUNE小説の難しさ2

■2001.09 サナトリウム小説私考――JUNE小説の難しさ2

 「JUNE小説の難しさ」の続きです。
 書いたのが二十年前であるため、言葉が古いです。「JUNE小説=ボーイズラブ小説」ですが、当時の言葉をそのまま残しています。

 中島梓氏の『小説道場』とは、「JUNE(小説JUNE)」という雑誌で連載されていた男性同性愛の小説専門の投稿場です。中島氏が道場主として作品の添削をし、段をつけていらっしゃいました。秋月こお先生や江森備先生など、プロ作家を多く輩出しました。
 現在はKindleで五巻まで発売されています。

新版・小説道場1

□JUNE小説の効用

 やおいはファンタジーだと言われますが、そのなかでも現実の痛みを感じる話と、現実の痛みを除いた話があるように思います。
 読者にも、現実の痛みを感じることで話に共感する人と、ファンタジーのなかでは現実の痛みを感じたくない人がいるように思います。
 変なたとえになりますが、まずは、「JUNE小説=頭痛薬」とします。

 現実の痛みを感じる話=前頭部に効く頭痛薬
 現実の痛みを除いた話=後頭部に効く頭痛薬

 同じ頭痛薬でも効く部位が違うのではないでしょうか。だから、

 現実の痛みを感じる話>現実の痛みを除いた話

 とは限らないのではないかと思います。

 読者のなかには、前頭部に効く頭痛薬が必要な人もいるし、後頭部に効く頭痛薬が必要な人もいる。両方とも必要な人もいる。
 そして、後頭部に効く頭痛薬のほうが精製が簡単なので大量に作られたとしても、簡単に作られる薬が難しい薬よりも価値がないとは言えない。
 それは薬の効用の違いであって、薬の質の違いではない。薬の質は別問題である。

□サナトリウム小説<文学

 中島梓氏が『新版・小説道場3』で「サナトリウム小説<文学」という話をされたとき、私は何かが違うような気がしたのですが、それをうまく言葉にすることができませんでした。
 その違和感を書き出すとこうなります。

 『小説道場』のなかで、「現実を書いた作家のほうがサナトリウムの夢を書いた作家よりも伸びるのが早い」という話がありましたが、

 サナトリウム小説<文学

 と言いきっていいのだろうか。
 サナトリウム小説は本当に「逃避」の小説、「いずれ出ていかなければならない楽園」の小説なのでしょうか。

 「サナトリウム小説から現実の世界に出ること」=「JUNE小説を卒業すること」とします。
 その選択肢としてはふたつ。

 現実の家父長制下の社会に適応すること
 現実の家父長制下の社会に適応しないこと

 サナトリウム小説の定義のひとつとして「女としての性を受け入れられない少女のための避難所」という考え方があります。そこからサナトリウム小説が一過性のもの・逃避の産物という考え方が出てきています。
 それでは、少女はなぜ女としての性を受け入れられないのでしょうか。
 現在の社会で女は二次的な存在であるということを受け入れたくないからではないでしょうか。

 「女」は「男」より優れていてはならないという有形無形の圧力を受けています。
 「女」と「男」が対等ではない世界で対等な恋愛を実現させるために、JUNE小説は「女」という存在を消しました。
 現在の社会のなかで「女」という身分を受け入れることを保留する。あるいはそのことに疑問を投げかける。意識的・無意識的にJUNE小説の読者はそのような操作を行っているのではないでしょうか。
 たとえJUNE小説を卒業したとしても、「女」を二次的な存在と見なす社会構造が変わるわけではありません。
 サナトリウム小説には逃避だけではなく、現実の社会への反抗も含まれているのではないでしょうか。
 だから私は、サナトリウム小説が「性的に未熟な女性のための避難所」という、それだけの認識をされることには反対です。

 「女」と「男」の地位を逆転させることについて。
 中島梓氏は『タナトスの子供たち―過剰適応の生態学』で自分のことを「ダンナを奥さんにして家事をやらせる」ほど強い女性と述べていますが、「夫を『妻』にする」ことは家父長制に適応しないことではないと思います。
 立場が逆になっただけで、弱者を従属させる家父長制を迎合していることに変わりはないからです。
 文脈的には冗談のような文章なのですが、「強くなって奴隷を持てるようになりなさい」と言われているような気がする……というのは言い過ぎでしょうか。

 JUNE小説には現実をベースにして書くか、サナトリウムをベースにして書くかという選択肢があります。

 薬の話の繰り返しになりますが、現実をベースにした小説がサナトリウムよりも優れている、とは一概には言えないと思います。
 たしかに男性同士の恋愛を成立させるにはサナトリウムよりも現実をベースにしたほうが難しいです。
 だからといってサナトリウム小説のほうが現実の小説よりも劣っているとは言えないと思います。

 サナトリウム小説<文学

 という定義は、ファンタジーがもつアナーキーな力を最初から否定しているような気がするのです。

 現実で救われない人間が、ファンタジーの世界をつくること。
 サナトリウムの存在それ自体が暴力的なものなのかもしれません。
 現実では救われない人間が、ファンタジーの世界をつくり、増殖させること。それ自体が。
 それはいまだ表面化していない暴力であり、「ファンタジーが現実をくつがえす」瞬間に、暴力は現前するのかもしれません。

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